理系は人間の意志を徹底的に排除し、文系は人間の意志を積極的にカウントする仮説。

文系理系の線引きにこだわりはないが、以下仮説。
文系の学問ではどこかしらに人間の意志や意図が入る(仮説)。理系の学問では徹底して人間の意志や意図を排除する。
だから文系的思考の人たちは感染症流行やその抑制に対しても「裏で誰かの意志が働いている」みたいな考えに親和性がある(仮説)。
 
一方で理系的思考の人たちは目の前の事象に人間の意志や意図がわざと混入されていたときにその可能性を見落とすことがある。降霊術やスプーン曲げに騙された科学者のように。だからサイエンス・スケプティックスのメンバーにマジシャンであるジェームズ・ランディがいたのだ。
 
医者が病状説明をする時にやりにくいのは一部の政治家という。人間の意志や意図を押したり引いたりして交渉で仕事をしてきた人たちなので、病気という自然現象も交渉でなんとかなると思っている(人がいる)。
逆に医者が病状説明をする時にやりやすいのは漁師や農家など、自然現象を相手にしてきた人たちだ。こうした職種は嵐や台風など自然を相手に仕事をしてきた人たちなので、病気という自然現象には交渉も駆け引きも通じないことが肌感覚でわかっている(ほんとは人による)。
 
社会で仕事をする以上、理系文系の分野が綺麗に分かれるわけではない。
人間の意志や意図をカウントに入れる文系的話と、意志や意図が介入しない理系的話がモザイク状キメラ状に混在しグラデーションをもって立ちはだかる
ぼくが生業とする医業も、理系的な医学と、制度や行政やコミュニケーションなど人間の意志や意図が入る医療文化が混ざり合う
 
だが今起こっている事象が、意志や意図をカウントすべき話か否かはよく見極めて対応したほうが有意義だろう。
 
蛇足だが、「人間の意志が世の中を変える!」とか『水からのメッセージ』的な話にいわゆる文系思考の人の一部が飛びつくのは、「目の前の事象の解釈には人間の意志や意図をカウントすべき」という文系的思考(←仮説)と親和性があるからで、そこをうまいことつつかれると“カモ”が誕生することになる。
 
技術者「通信速度の限界は光の速さですね」
営業マン「そこを気合いでなんとかするのが技術屋の仕事でしょう!」
技術者「違います」
みたいな話ですね。

付記)さっき気づいたけど何かトラブルや事故が起こったときにすぐ「誰のせい?」と犯人探し始めるのもこれと地続きですね。すべての事象に人間の意志や意図がなんらか関与しているという感覚。