10月15日(日)、よみうりカルチャー北千住で公開講座『認知症との上手な付き合い方~家族の心得~』やります!

10月15日(日)、よみうりカルチャー北千住で公開講座やります!
題して『認知症との上手な付き合い方~家族の心得~』。
家族が認知症かもしれないと思ったらどうしたらいいの?
本人が受診を嫌がったらどうする?
家族ができることってなに??

紙の発明あるいはなぜ欧米人はプレゼンが上手か

結論、紙はすごい。

 

何年か前にネット上で見かけた話ですごく好きな話がありまして、題して「紙の発明」。

「紙の発明」、一言で言えば、もしデジタルデバイスより紙のほうが後に発明されたらその便利さに誰もが驚愕する、という話です。

デジタルデバイスだけで情報のやりとりをしているパラレルワールドで、ある日、紙が発明されたとする。

世界は震撼します。こんなふうに。
 「スクロールなしで見たい情報がすぐ見つけられる!」

「電源なしでどこでも見られる!」

「折っても曲げても情報が損なわれない!」

「何千年も保存できる!」

「めちゃめちゃ安価に作れる!高度な技術なしでも作れる!」

「あとからいくらでも書き込める!消すのも簡単!」

「無限コピーもしにくいしどれがオリジナルかわかりやすいから、著作権保護とか超便利!」

「本とかいってなにこれあり得ないんですけど!」

となって、
「デジタルデバイスなんてもう古い。まさに紙革命!」ってなるだろう、って話。

 

元ネタをいつぐらいに誰が言い出したのか検索したけどうまくひっかけられませんでした。ご存じのかた教えてくださいませ(①)。

元ネタがどんな文脈で語られたのかはわからないけど、新しいものが常に便利とは限らない、新奇性に目を奪われず、ものごとの本質を見て、状況に最適なツールを選ぶのが大事ってことでしょうかね。

 

実際、紙と人間の精神の関連は興味深いものです。

米原万里氏の書いたものの中で、欧米でロジックやプレゼンが発達したのは紙が東洋に比べて乏しかったから、というアイディアを見かけたことがあります。

東洋では豊富に紙があったからただ無為にだらだらと記録を書き連ねておくことができたけど、欧米では紙は貴重で、よっぽどのことでないと使えなかった。だからできるだけ記憶しやすい、されやすい形で記録を伝えなければならなくて、そのために欧米では覚えやすい形に事実を加工するためにロジックを形作る術が発達したり、起承転結のある物語の形で語るようになったみたいな話だったはず。事実の羅列だけでは聞いたほうも覚えにくいけど、論理性があったりストーリーがあったりすると覚えやすいですからね。

西洋/東洋の二分法も今どき流行らないけど、忍者の巻き物や西遊記のお経みたいに、秘伝や真理が書かれた書物を求めて様々な冒険が繰り広げられるなんて話は西洋でもメジャーなんだろうか。西遊記なんか、あれだけの苦労をしてお経を取りに行くくらいなら、自分で何年も修行して真理を探究するとかってやり方もありそうなもんですけど、お釈迦様が到達した境地に自分が達せられると思うのはおこがましいのかな。
西遊記では、お釈迦様の到達した真理を書いた紙=お経を求めるだけじゃなく、お経を書いたお釈迦様自身と会えないかトライしたりしてないんだろうか。確か孫悟空が世界の果てまで行ったつもりがお釈迦様の手の上だったってエピソードも西遊記の中にあるわけだから、星が入った球を7つ集めたりしたらお釈迦様来てくれそうな気もする。

それともあれか、本人よりも本人に関するグッズのほうが貴重になるフェティシズム的なあれの源流なのか西遊記

 

紙にまつわるエトセトラと言えば、最近の子どもはミカンの汁で紙に字を書いたりしないのかなーとか、J・P・ホーガンの『星を継ぐもの』の出だしで真紅の宇宙服の異星人が持っていたノートをトライマグニスコープで解析するところとか面白かったよなーとか、中島らもの『永遠も半ばを過ぎて』の中の書物のうんちくもいいよなー、こりゃあいいシボです、などなど連想は転がってまいります。
とどのつまり、こうしてとりとめもなく連想をメリハリや際限なく書き連ねて行ってしまうのもネットの悪いところで、これが貴重な限られた紙に書くんだったらこうはいかない。きっちり何文字以内かにおさめなきゃいけないし、文章の盛り上がりやオチなんかの構成も考えなきゃいけない。紙に書かずにデジタルデバイスに書くからこういうだらだらした文章になるわけで、

 

結論、紙はすごい。

ではまた。

 

注① 友人Tのご教示によると、「紙の発明」、言いだしたのはフィナンシャル・タイムズの人みたいです。T君、感謝。

もしコンピュータが誕生した後に、紙が発明されていたら…。 | 隠居系男子

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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棚にあげるか二階に行くか

もの言うことは、恥ずかしい。

どこかでそういう感覚が残っている人の言うことでないと、信用できない。そんな気がする。

 

週刊新潮9月21日号の五木寛之氏のエッセイの題名はこうだ。

<自分のことは棚にあげて>

そのなかで氏は、こう書いておられる。

<日々の暮らしぶりとか、健康とか、老後の生き方とか、いろんなことについてこれまで勝手なことをあれこれ書いてきた。正直言って忸怩たる思いがある。
(略)

「偉そうなことを言って、自分はどうなんだ」

という内面の声は常に心の中にひびいている。>(上掲書p.58)

 

人間は、他人のことをあれこれ言うのが大好きだ。誰かが不倫してケシカランとか国を侮辱したとかああだこうだと論評しては溜飲を下げる。

そこに一抹の真実はあるのだろうが、いや一抹の真実があるからこそ、他人を糾弾するときには気を付けなければならない。自らの正義と正論に酔って、暴走しちゃうんですね。
怪物を叩く者は、自分自身も怪物になることのないように気を付けなければいけない。世間という深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだってとこでしょうか。
非のうちどころのない完璧な人間でない限り、喜色満面で誰かを叩いているうちに「お前が言うな」という矢は必ず飛んでくる。

 

そしてまた、高級な理論や難しい言葉を振り回すのが大好きな人もいる。高尚な概念を一分の隙もなくパーフェクトに組み立てて、誰も反論のできないような正論を滔々とまくしたてる。

そういう人がみんなみんなご立派な私生活を送っているかというと、そうでもなかったり。


もちろん、みながみな「オレも他人のこと言えないし」とか「オレが偉そうに言うのもな」とかと口をつぐんでしまうのも考えものだ。
おかしな人やおかしなことへの批判が無ければなあなあの馴れ合いで社会はダメになるし、たとえきれいごとであったとしても正論や新しいアイディアを誰かが言い出すから世の中進歩する。

でもね、そこにちょっとだけためらいとか恥じらいとか戸惑いとかあるいは立派な自分自身も完璧じゃないけどでも言わずにはいられないみたいな諦観とか、そんなものが欲しい。ちょっとでいいから。

五木氏は言う。
<世の中に向けて何かを述べるということは、「自分のことは棚にあげて」言うしかないのである。>(p.59)。
もの言うことの気恥ずかしさと、それでもなお何かを述べたい述べなければという感情の間を揺れ動き続けている人、こういう人は信用できるよなあ。

逆に信用できないのはどういう人か。自分を棚にあげるんじゃなくて、自分ごと二階に上がって考えもの言う人だ。

 

二階にあがるというのは、瀬古公爾氏が著書『ぶざまな人生』(洋泉社 2002年)で使って表現で、普通の日常生活を一階、知的行為・インテリ的言動を二階に例えている。

瀬古氏は同書の中で、自らを何も考えずに一階に安住するでもなく、市井を忘れて知的遊戯に没頭する二階の住人にもならず、日常生活に足をつけながらも中二階でものを考え続けると宣言している(p.171-175)。
<この中二階は「ぶざま」ではあるが、わたしが二階をきらうのは、ふだんは二階(高級な観念)に上がりっぱなしで、一階(俗情)を見下ろしている者が、夜陰にまぎれてちゃっかりと一階に降りてきて、一階の住人以上の俗情を手に入れていたり、手に入れようと右往左往している姿がこのうえなく「ぶざま」だからである。ふつうに考えれば当り前のことだが、なんだ、ふだんは偉そうなことを言っているが、こいつもやっぱり金と女(男)と地位とモノが欲しいんじゃねえか、コノ二階ヤローが、と思ってしまうのである。>(p.173,174)

現実生活に立脚しつつ、時に知的な背伸びをしてものを考えるという中二階の思想というのは真似してみたいところである。

 

ネット普及期の幕開けには、匿名性のもとで誰もが社会的属性を離れて自由闊達に議論を戦わせることができるようになるのかと胸を躍らせたものだ。
肩書や性別や年齢などなどと発言・発想・アイディアが切り離されて流通し、純粋に発言・発想・アイディアの面白さや妥当性だけで勝負できる時代になったと期待した。

ところが時は流れ、過去の言動がデジタルデータで永久保存されいつでも検索できるようになると、「前と言っていることが違う」「発言が場当たり的だ」と批判されるようになった。

あるいは誰かがその気になれば発言者のプロフィールをサルベージして、「こいつはカッコいいこと言っているけど実生活ではこんなヤツです」と吊し上げることだってできる。
問題発言をネットですれば、あっという間に所属組織に連絡が行き、その結果慎重な人ほどきれいごとしか言えなくなった。
ネット以前よりも、発言は社会的属性や過去の言動に縛られるようになり、昔よりももっと「もの言えば唇寒し」という風潮になってしまったかもしれない。

 

誰もが気軽に意見を発信できるようになったこの時代、どういうスタイルに収束していくのかわからない。だがもっとわからないのはこの文章の収束のさせかたで、仕方がないからかわいいネコの画像でも貼っておしまいにしておく。

これからの言論は、いったいどこに行くのだろうか。

   ∧_∧  
 ( ´∀`)
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3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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a tribe called doctor/World Congress of Neurologyを前に

自分の所属している日本神経学会が今日からスタート。
日帰りだけど明日参加の予定ということで、医学学会に関する数年前の苦い思い出がよみがえってきた。

外科医で雑誌『ニューヨーカー』ライターのアトゥール・ガワンデが医者の学会についてこんなことを書いている。
<医者は孤立した世界に住んでいる。出血と検査と切り刻まれる人から成る異質の世界だ。(略)身内の者にも理解されない世界であり、ある意味では、運動選手や兵士やプロの音楽家が置かれている状況と似ているかもしれない。だが、そういう人たちとは違って、医者は孤立しているだけでなく孤独なのである。研修期間を終え、スリーピーアイやミシガン州南部半島の最北端の町、あるいはマンハッタンに居を構え、たくさんの患者を相手に孤立無援の診療に当たっていると、胃癌の切除手術の後に肺炎で患者をなくしたり、家族の責め立てるような質問に答えたり、保険会社と支払いのことでもめたりするときの気持ちをわかってくれる仲間と知り合うことなどできないのだ。
しかし、一年に一度、その気持ちを分かち合える人々がある。どこを向いても仲間がいる。そして、近づいてきて親しげに隣に座る。主催者はこの学会を「外科医の議会」と呼ぶが、的を射た呼び名だ。そう、私たち...は、数日の間、いいところも悪いところもひっくるめ、医者だけの国の住人になるのである。>(『コード・ブルー 外科研修医 救急コール』医学評論社 2004年 p.103-104。第一部第5章「良い医者が悪い医者になるとき」は必読)

かくしてその年、ぼくも神経内科医という部族の一員であることを確認すべく学会会場を訪れたのだが、前日に十年ぶりぐらいに再会した後輩S先生と飲みすぎてあいにくの二日酔い。
頭痛について頭を悩ませること誰よりも深刻でまるでわがことの如く、胸に込み上げてくるものは医者同士の連帯感ではない熱い何か。
講演を聴いている間にも何度か意識を失い、あらためて昏睡coma and stuperと意識の不思議さに思いを馳せる。
脳の損傷によって行動がうまくできなくなる<失行>症状と言語の障害である<失語>の講義の際にも頭に浮かんでくるのはただただ<失態>の二文字。

 

というわけで二日酔いの学会参加であったが昨夜早めに会場を後にしたのは正解であった。あのまま失態をさらし続けたら、<医者だけの国>から永久国外退去を命じられていたかも知れない。
(FB2014年5月21日を再掲)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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美意識とデジタルデトックス

「大事なのはね、美意識を持つこと」

その女性は、医学生のぼくより10数歳は年上だった。

「美意識っていうのは簡単で、なにが自分にとってNGで、なにがOKかってこと」

そういってその人はワイングラスに口をつけた。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのテートギャラリーには、ここ数年、知的エリートたちが数多く通ってきているという。その目的はひとつ、「美意識」を鍛えるため。

グローバル人材やスーパーエリートたちは今、こぞって美意識を鍛えにきている。その背景や理由とは、を説いたのが山口周著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社 2017年)である。

この本の著者山口氏は、大学院で美学美術史を専攻し、BCGなどを経て今は組織開発・人材育成に携わっているという。徹底的に多面的に、「美意識」がエリートに求められているかを論じた良書である。

 

最近の経営者が片腕として重視するのはMBA出身者ではなくデザイナーやアーティスト感覚を持った人材だ、という話を最初に読んだのは1年ほど前のBooks&Appsでだったように思う(が元記事はうまく見つけられなかったので自信がない ①)。
「経営 デザイン」で検索すると、2014年ころからそうした記事が増えているようだ。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』によれば、今、エリートに美意識が必要とされる理由は以下のようなものだという。

すなわち、

・論理思考が普及し尽くして、論理思考だけでは他者と差別化できなくなった。「正解のコモディティ化」問題(前掲書 kindle 484/2716あたり)。

・ものごとが流動的で、原因が結果になり結果が次の問題をどんどん発生させていくVUCAな世界では分析的・論理的な情報処理方法ではついていけない。VUCAは不安定・不確実・複雑・あいまいの英語の頭文字(kindle版 134/2716や第1章)

・大局的にみると、世界の消費者の物質的欲求はほぼ満たされており、残っているのは自己実現欲求自己実現欲求を満たすために、人々が求めるのは物語をもったブランド。そのためには美意識がなければならない(第2章)

・システムの変化が早い世界では、法律が現状においつかない。「法に触れなければなにをしてもよい」という考え方の背景には「法令不遡及の法則」があるが、実際にはその時点で法令に触れなくても過去にさかのぼって罰せられる事例は複数ある(グレーゾーン金利など)(第3章)。法律という外的要因で行動を規定するのではなく、「真・善・美」という内的規範で行動することによって、あとからペナルティを受けるリスクが激減する。エリートが美意識を鍛えるのは「犯罪を犯さないため」(1500/2716)

この本から、「論理思考の時代は終わった。これからは美の時代」と結論を出すのは短絡的だ。論理思考が終わったのではなく、論理思考を身に着けているのは当然の時代になったので、さらに差別化するためにも美意識を持つことが必要というのがこの本の主張だ。新しい時代を開く者は、前の時代のスキルを一通り身に着けておくことが要求される。剣が不要の時代を開いた坂本竜馬は、剣の達人だった(S先生の教え)。

 

競争相手誰しもが論理的・合理的な情報処理をできるようになった、という観点からは、AIの台頭も見逃せない。24時間365日超高速で合理的情報処理ができるAIと同じ土俵で戦っても勝ち目はない。

戦略とは戦いを略すことだ。戦いをしないでも勝つようにしておくのが最高の戦略である。
合理的論理的思考は身に着けつつ、そこでは戦わず、美意識という今のところはまだ人間が優位な点で戦うのがAI時代の最高の生存戦略となる。

 

ではどうしたら美意識を鍛えられるか。

前掲書著者の山口氏が勧めているものの一つがVTS(=Visual Thinking Strategy)だ。

これは美術作品を徹底的に「見て、感じて、言葉にする」トレーニングである(2310/2716)。

徹底的に「見て、感じて、言葉にする」ことでパターン認識から自由になり、「豊かな気づき」が得られるようになるという(2340/2716)。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』ではあまり触れられていないが(②)、美意識を鍛えるためには身体性も大事ではなかろうか。

『「である」から「べき」は出てこない』というヒュームのカミソリの格言のごとく、論理思考だけでは決して「真・善・美」という内的規範は生み出せない。

「真・善・美」というのは死すべき定めの人間の弱さ儚さ愛おしさから出てくるもので、そこには身体的感覚が深くかかわっている。

 

食の美に関わる仕事、ソムリエの田崎真也氏は五感、中でも嗅覚を豊かにすることを勧めている(田崎真也『言葉にして伝える技術』祥伝社新書 2010年 P140-149)。

言語に出来るものはデータ化できる。データ化できるものはAIで処理できる。

視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感の中で最も言語化できていないのは嗅覚で、その嗅覚を鍛えることの重要性をソムリエが説いているのは興味深い。

 

AI時代に我々がどう生きるべきか不安になったらネットから離れるべき、という言うのはリバネス社の丸幸弘氏だ。

<不安だったら、「週に1回、ネットにつながらない遊び」をしたらいい。その日にはスマホを触らない。それによって自分の感性が磨かれてくる。ネットの中にあるものは、全部AIに置き換わると思ったらいい。ネットに出ていない真実、目の前の子どもと目と目を合わせている時間だけが人の感性を豊かにします。>(藤野貴教『2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方』かんき出版 2017年 P.185)

 

AIと仕事を奪いあう時代、必要なのは美意識だ。その美意識を鍛えるためには身体性を取り戻すのが不可欠だ。時にはネットから離れること、いわゆるデジタルデトックスという奴が今こそ必要な時なのかもしれない。
デジタルデトックスで身体性や感性、美意識が磨かれるなら、デジタルデトックス、今日からぜひやってみたいと思う。

スマホタブレットに触れずに生きていけるか少々不安だが、鉄の意志を持ってすれば案外すんなりいくのではないか。デジタルデトックスを経て生まれ変わった自分に出会うのが楽しみである。

デジタルデトックスの様子は、リアルタイムで毎時間ネットにアップします。お楽しみに!(嘘)

注① おそらくこの記事。読み返してみるとちょっとニュアンスが違いました。

時流にあう人、あわない人。「有能」の定義がほんの15年で大きく変わる。 | Books&Apps

 注② 身体性について、同書(kindle 1669/2716など)および山口周氏の別の著作『外資系コンサルの知的生産術』(光文社 2015年。kindle版 1228/3323など)ではアントニオ・R・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について触れられている。

↓大事なのは身体性。大事なカラダを守るために。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

「公設民営」スーパー・コンビニ登場に思う(R改)

headlines.yahoo.co.jp

8月21日配信の北海道新聞web版によると、北海道で、過疎地の「買い物難民」を救うために自治体がスーパーの建設費を補助するスーパー・コンビニの「公設民営」の事例がいくつか見られるという。
おそらく「一企業だけを公的にサポートしてよいのか」という議論があり、それを乗り越えてのスーパー・コンビニ「公設民営」なのだと思われる。

先日北海道を旅行してきたのだが、スーパー・コンビニはまさに社会的インフラだと痛感させられた。日本全国どこでもなんでも手に入るというのは大変なことだ。

 

投資家、瀧本哲史氏は著書『戦略がすべて』(新潮新書 2015年)の中で「北海道は日本の縮図。北海道で起こることは全国で起こる」(p.123-127)と述べた。
 折しもnewsweek日本版2017.8/15号では「人口減少社会日本」が特集されている。
人口減少社会日本で、スーパー・コンビニ「公設民営」事例は増えていくだろうから、いまのうちに研究しておくべきかもしれない。

 

ちょっと飛躍するけど、今後は人口密集エリアでの診療所・病院の公設民営事例も増えていくだろう。

人口密集エリアは家賃も高く医療機関同士の競争も激しいが、医療機関の主な収入源である保険収入は全国一律で、真面目な医療機関ほど存続が難しい。
存続のために怪しげな自由診療やストライクゾーンぎりぎりの医療行為を行う医療機関が増えてくると、保険診療内で良識的な医療を住民に提供するニーズが明確化してくる。しかしそうした保険診療内での良識的な医療行為は、完全民間ベースだと人口密集エリアでは維持不能になり、結果、公設民営の診療所が必要とされる、という流れを想定している。
ただ、医療の場合は提供者と需要者の間の情報の非対称性により、スーパー・コンビニの不在よりも問題が明確化しづらいかもしれない(不適切な医療行為が行われていても気づきにくい)。

 

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 (FB2017年8月22日を加筆再掲)

読書感想文を書きたくない子の気持ち。

読書感想文を嬉々として書くようなやつとは友だちになれない。

そんなふうにそのころのぼくは思っていた。ぼくもまた、読書感想文を書きたくない子どもの一人だった。

 

<大人は誰でも元は子供だった(そのことを覚えている人は少ないのだけれど)>。

そんなことをリヨン生まれの飛行士が言っていた。ほんとだねー。

歳をとるにつれて、子どもだったころの記憶はどんどん薄れていってしまう。ヒツジのこととかバラ色のれんがでできた、窓に花が、屋根にはハトのいる家のことを考えるより、形や数字のことばかり考えるようになるから(ここまで246文字)。
だから、読書感想文を書きたくない子どもだったときのことをギリギリ覚えているうちに書き残しておきたい。明日には忘れてしまうかもしれないから。

読書感想文を書きたくない子には2種類いる。

本そのものが嫌いな子と、本は好きなんだけど読書感想文は書きたくない、という子と。ぼくは後者だった。
本そのものが嫌いな子は、それはそれで仕方がない。スポーツ嫌いな子を無理やりスポーツ好きにすることはできないのと一緒で、読書嫌いな子を読書好きにすることはできない。

本を読むことは素晴らしいと個人的には思うし、読書の習慣があれば人生が豊かになると思うけど、それはスポーツに関しても同様だ。スポーツ好きの人は、スポーツの習慣があれば人生豊かになるから、ぜひともみんなスポーツしなよ、と思っているだろう。やだよめんどくさい。

まあでも、本好きスポーツ嫌い族が渋々体育の時間や運動会につきあったんだから、本嫌いスポーツ好き族も読書感想文くらいつきあってもバチはあたるまい。

たまに本好きスポーツ好き族という人たちもいるが、そういう人たちは大きくなったら椎名誠にでもなれるんじゃないかな。いいなあ。

さて、本は好きだけど読書感想文は嫌い、という子どものことに戻る。
「感想なんて人に言うもんじゃない」

そのころ、そんなふうに思っていた。

本を読んで心が動くのは事実だけど、自分の心のうちをわざわざ人に言うなんて恥ずかしい。自分の感動は誰にも秘密のまま、大事にとっておきたい。もやもやふわふわぽかぽかした気持ちを、言葉に変えることすら嫌だ。本を読んで生まれたもやもやふわふわぽかぽかした気持ちは、自分の心の中にそのままとっておくべきものだ。文字なんていう目に見えるものに変換するのすら冒涜で、なぜなら<かんじんなことは目では見えない>ものだから。
なぜ自分の心の内側を、先生の命令に従って誰かに見せなきゃいけないんだろう?そんな恥ずかしいことなんて、絶対イヤだ。
そんなふうに思って、読書感想文は後回しになっていく。
大人の言葉で言えば「心情の吐露は他人から強制されるべきではない」ってのが本好き読書感想文嫌いの子の気持ちだろうか。

算数ドリルなんて夏休みのはじめに終えてしまっているくせに、読書感想文と自由研究だけが最後の最後まで残る。ぼくはそんな子で、始業式の朝、読書感想文を書き始めてたくらいだ。

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そのときの自分に向けてメッセ―ジを送るとしたら、「とにかく終わらせろ」ということで、そのためには内容は二の次、三の次。
文字数が埋まらないときはまわりにアンケートを取るとよい。アンケートをそのまま原稿用紙に書くんじゃなく、アンケート結果を書くときはこんなふうに書く。

本を読んだあと、ぼくは家ぞくと主人こうの行どうについて話しあいました。
お父さんは主人こうの行どうは自分かってだと思うと言いました。
お母さんは主人こうの気もちもわかるわ、と言いました。

ぼくはお父さんとお母さんと話しあってみて、どちらが正しいのかまだよくわかりませんでした。もしかしたら、おとなになるとわかるのかもしれないと思いました。
学こうがはじまったら友だちのみんなともこの本の話をしてみたいと思います。早く学こうがはじまればいいのに。

 

ボイントは、「家族と」「本について話し合う」「多様な意見を尊重」「断定的なことは言わない」「自分の心情は吐露しない」「大人になること=成長、学校が始まること=共同体への帰属に対して前向き、肯定的」ということ。

なにより大事なことは、これで218文字、原稿用紙の半分が埋まるということだ。
読書感想文を読むのは先生という大人で、大人は形や数字のことを考える生き物だから。

健闘を祈る。


引用文献:サンテグジュペリ星の王子さま』(池澤夏樹訳 集英社 2006年)

 あのバラも曲者だよなあ。

 

 ↓読書感想文には向かないけど、病院に行く前には必読。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45