「ふるさと納税」とインバウンド政策が首長にもたらすポジティブな心理効果について。

ふるさと納税やインバウンド政策について考えた。万物と同じく功罪両方あるだろうが、プラスの面、特に心理的なプラスの面についてだ。
山口県柳井市の元市長の河内山哲朗氏がこんなことを述べている。
〈日本の地方行政は(場合によっては国政もそうですが)、施策のスタートは課題、欠点、短所になってしまうのです。日本のメディアも含めて、いかにある部分が弱いか、ある部分がダメか、ある部分が欠点であるかということを前提に施策を考える。これは予算を取るための手法としては間違いではない。(略)笑い話で、例えば市長が東京に行って予算の陳情をやります。それは結局「私のところはいかにダメか」を言うわけです。そうすると予算がつくのです。人間というのは、そんなことを繰り返し言っていますと、いつの間にか自分の頭の中に「自分たちはダメだ」ということを刷り込んでしまうのです。これが、地方をダメにしている原因でもあるのです。〉(小宮一夫/新嶋聡 編 河内山哲朗著『自律と自立のまちづくり』吉田書店2024年 p.135)
我が市我が町のここがダメだから税金回してくれということを繰り返していると、自分で自分に「ダメだ」という自己暗示をかけてしまうということだろう。地域の自己肯定感が下がってしまうのだ。
これに対し、ふるさと納税やインバウンド政策は真逆のベクトルを与える。
我が市我が町のこれが良いここが良いからふるさと納税してくれとか観光に来てくれとやるわけで、これは逆に地域の自己肯定感を上げることになる(かもしれない)。
もちろん税の公平性とかそもそもの税の意義とか効率性の問題点がふるさと納税制度にはあるし、オーバーツーリズムなどなどの問題がインバウンド政策にはある。
さはさりながら、今まで「我が市我が町のここがダメだから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を下げる陳情が首長の仕事であったのが、それに加えて「我が市我が町のここが良いから予算つけてほしい」という地域の自己肯定感を上げるふるさと納税などのシティセールス、シティアイデンティティの仕事が新たに加わったというのは非常に面白いことだと思う。

 

 

「カタ」と自由意志。

2023年8月6日放送の『桂文珍の演芸図鑑』で狂言師の野村萬斎氏が面白いことを言っていた。うろ覚えなので間違えていたら直します。

 

「以前から全国の学校で教室をやっております。

きっかけですか?

…ひところ、学校で『キレる』子どもというのが話題になりましたでしょう。

私なりに考えましてね、『キレる』子どもたちというのは『カタ』を知らないから『キレる』のではないか」

 

明言されたのはそれくらいで、インタビューの話題は次に移ってしまったが、野村萬斎氏の考えというのはこうではないだろうか。以下はぼくの推測だ。

 

「キレる」というのは、その場の状況に即さない突発的、非連続的な怒りの感情の発露である。怒りの感情の表現方法が激しく、非典型的であるため周囲は困惑し、周囲と本人も傷ついてしまう。

怒り、あるいは喜怒哀楽には、歴史的に周囲に理解されやすい、共感しやすい表現がある。それを究極まで極めたものが「カタ」である。

古来より受け継がれ磨き上げられた「カタ」を学ぶことで、「キレる」子どもたちも共感されやすい喜怒哀楽の表現方法を知り、「キレる」ことを減らせるのではないか。

 

この話をマクラに、「カタ」と「自由意志」、それを踏まえた「世渡り」について考えを巡らせてみたい。

 

漫才作家で吉本興業NSC講師の本多正識氏の『1秒で答えをつくる力』(ダイヤモンド社 2022年)に面白い話が出てくる。こんな一節だ。

〈ダウンタウンが大人気になった頃のNSC生はネタ見せをするコンビの多くが「ダウンタウンもどき」でした。ボケは真顔でシュールに、ツッコミは勢いのある関西弁というのがひとつの形でした。ほとんどの生徒が同じことをしていたため、まったくダメなように思えました。 しかし、実際は私の予想に反して、ダウンタウンもどきの生徒の成長が非常に早いことに気がつきました。〉(前掲書kindle版49/301)

 

同書によれば、面白いことに、「ダウンタウンもどき」の生徒のほうが成長が早いという。

このことなどから、前掲書著者の本多氏はオリジナリティを生み出すには徹底的な「真似」が重要ではないかと指摘している。

 

同氏によれば、真似するときにはまずはお手本を全部真似することが大事だという。

星野リゾートの星野佳路氏は数多くの経営学の教科書を読み込み実践しているが、重要なのは〈理論をつまみ食いしないで、100%教科書通りにやってみる〉ことだという(中沢康彦『星野リゾートの教科書』日経BP社 p.23)。

 

普通はこれが、なかなかできない。

反省を込めて書くが、いろいろ本を読んで実際にやってみる、しかも100%本の通りにやってみるというのはなかなかできない。

ぼくも含めた多くの読者は、「良いことを書いてるな」と思いつつ、読んだら読みっぱなしにしてしまう。 お手本や教科書などなどのやってる通り書いてある通り、100%実践できるのは本当にごくわずかで、しかもそれを身につけるとなるとさらに少数の人しかいないだろう。

そう考えると冒頭のNSCでひところたくさんいたという「ダウンタウンもどき」の生徒は、ダウンタウンの「カタ」を身につけ「もどき」まで持っていけるだけでも相当なものなのだろう。

真似や「カタ」というとオリジナリティや「自由意志」と反すると思われるが決してそうではない。

真似や「カタ」はオリジナリティを生み出す母であり、「自由意志」をのびのびと働かせる土台なのだ。 全ての芸術は模倣から始まる、という。だから恐れず、〈いらっしゃいモホー〉(清水ミチコ氏のネタ)。

 

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〈理論の出番は問題が起きた時だけだよ。理論は道具なんだ。

しっかり理論を学んだ人なら理論について考えなくても演奏ができる。 ぼくらが理論について学ぶのは正しい音を出すためだけど、人の注意を惹くかっこいい音はそこから外れた音だ。理論から外れた音を出すために理論を充分に学ぶ必要がある。〉

ベーシスト、ヴィクター・ウッテン氏のレクチャーがレクチャーする。先だってTwitterで出回った動画だ。

 

「カタ」と「自由意志」についてしばし考えていた。

そんな時にこのヴィクター・ウッテン氏の話が流れてきて、ストンと腑に落ちた。

 

「カタ」にはめるというように、「カタ」という言葉は「自由意志」と相反するもののように捉えられがちだ。

しかし音楽理論を学ぶのは音楽理論から外れた“カッコいい音”を出すためであるように、「カタ」を十分に学んだ者だけが「カタ」から離れて自由に振る舞うことができる。

 

「カタ」が威力を発揮するのは、弱っている時だ。それと弱い時。

弱っている時や弱い時には、「カタ」を知っているとそれだけで“しのげる”。

成功率が高く失敗率が低いもののエッセンスを凝縮したものが「カタ」だから、「カタ」を駆使して弱っている時や弱い時をしのぐのだ。

 

我らが愛するTwitterもまた、「カタ」の宝庫である。 誰かに何かを伝えるというのはもともととても大変な技術だ。

そもそも人間は基本的に他人の話を聞いていないものだ。 話を聞いてもらって何かを伝えるためには本当はすごく技術が要ることなのだが、それに気づいている人は少ない。

そこで有効なのが「140文字以内」という「カタ」だ。140文字以内なら、ある程度人間は読んでくれる。

あるいは「ワイは」みたいなネットスラングも「カタ」である(『2ちゃん語』というか、『なんJ語』でいいんすかね?)。

マジもんの対立や炎上をまねかずユーモラスにチクリとキツいことを言いたい時に、「ワイは◯◯なんやで」みたいな「カタ」に乗せるとうまく行きやすい。

 

「カタ」ってのは成功率が高くて失敗率が低いコツが多めに入ってる。そん代わり自由意志が少なめ。

で、それに大盛り2ちゃん語。これ最強。

しかし「カタ」ばかりやると次から店員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。 素人にはおすすめできない。

(オチを考えるのがめんどくさくなった時に使う「カタ」)

 

 

【覚書】マンガ編集者の話。

覚え書き。

 

マンガ編集者の話。 たぶん1980年代後半、朝日新聞夕刊の文化欄の論評でこんなことが書いてあった(と思う)。

 

日本のマンガは子ども向けだけではなく文学や政治経済、思想、文化などありとあらゆるテーマを幅広く扱うようになった。その背景の一つに、編集者の存在がある。

商業マンガ文化が急速に成長拡大した時期、各出版社は若手社員をどんどんマンガの担当にした。その中には「マンガなんか子どもだまし」とか「オレは哲学書作りたくて出版社入ったんだ。なんでマンガなんかやらされるんだ」みたいな人も少なくなかった(とその評論に書いてあった)。

『サルでも描けるまんが教室』にも「わしゃ埴谷雄高に憧れてこの業界に入ったんじゃ〜!」みたいな編集者が出てきますね全共闘崩れの編集者とともに。

 

で、そうしたマンガに何の興味もない編集者が、本当は自分がやりたかった文学や政治経済や思想といったテーマに関われないルサンチマンを担当した漫画家にぶつけて「やらせた」ことが(ことも)、マンガのテーマを広げることにつながった、みたいな話。

 

異種の文化がぶつかることで新たな文化が生まれる、そしてそれは時に予期せぬ形で起こり、予期せぬ成果を生むみたいな話ですごく面白かったので覚えています。いつか時間ができたら元の評論を漁ってみたい。

 

 

鳥山明先生の訃報に思う。

景山民夫氏のエッセイに『アディオス・パンテラ・ロッソ』という作品がある(『普通の生活』角川文庫収載)。
景山氏がテレビの撮影か何かでスペインの田舎村に滞在している。
小さな村ではやることもなく、言葉も通じない。
 
村のレストランに入る。同じくやることのない村人たちがそこで時間をつぶしている。
レストランの女主人が白黒テレビをつける。スペイン語のニュースが流れる。
ニュースを見た村人たちが、ひそひそと、そして次第に興奮して喋り始める。
当時世界中で大人気だった映画『ピンク・パンサー』の俳優、ピーター・セラーズの訃報を伝えるニュースだった。
 
〈「アディオス・パンテラ・ロッサ」。さよなら、ピンク・パンサー。
それはピーター・セラーズが死亡したことを告げるニュースだった。
僕は、村人たちと一緒に、興奮して過去に観たピーター・セラーズの作品のことを話しまくっていた。日本語で話していた。そして、彼らは僕の言っていることが分かっていた。クルーゾー警部の仕草のひとつひとつ、セリフの一言一言が通じていた。〉(前掲書p.275)
 
鳥山明先生の(先生としか呼びようがないではないか)訃報に、世界中のファンが打ちひしがれている。
“TORIYAMA"でTwitter検索すると、英語やフランス語やスペイン語や韓国語や、とにかくそれぞれの言葉で、ファンが先生の早すぎる死を悼んでいる。
それぞれの言語はわからなくても、何が語られているかは不思議と全部わかる。 「ボクが子どものころ」とか「かめはめ波を何度も練習した」とか「悟空はボクのヒーローだった」とか、世界中のファンが思い思いに語っているのだ。
 
鳥山先生と先生の生み出した漫画世界・アニメ世界が、たくさんの人たちの価値観やモラルや世界観を育んだ。
鳥山ワールドが子どもたちに、この世はでっかい宝島だと教え、雲のマシンでどこまでも飛んでスリルな秘密とユカイな奇跡を探すアドベンチャーへといざなったのだ。
ああ、みんな集まれペンギン村へ。
 
ありがとう鳥山先生。
アディオスもサヨナラも言わないことにする。
ありがとう鳥山先生。
 
 

NASAで教えるのはリーダーシップではなくフォロワーシップ、というお話と先輩後輩システム。

(Twitterに上げたものを備忘録としてアーカイブ化しときます)


「NASAではどんなリーダーシッププログラムをやってるんですか」と宇宙飛行士の人に質問したら、「リーダーシップはあんまり教えないですね。むしろフォロワーシッププログラム。宇宙飛行士って、もともと軍の超エースとか一流科学者とかで子どもの頃からリーダーなんで」と言われてコスモを感じた。

リーダーシップとフォロワーシップをどうはぐくむかという話。
日本だと特に運動部では否応なく「先輩・後輩システム」に放り込まれるから、普通の才能の人でもリーダーシッププログラムやらされるし、傑出した人もフォロワーシッププログラムやらされるのは興味深い。

アメリカだと傑出した人は子どもの頃からリーダーばかりやってくるのでは。軍隊はわからんけど。

アメリカで育ってないからわからないけれどアメリカだとリーダーは子どもの頃からリーダー(クォーターバック&クインビー人生)でアンダードッグはアンダードッグのまま(要検証) リーダーはフォロワーの悲哀もわからないしフォロワーはリーダーの孤独もわからない(要検証)のでは。
詳しいかた教えて下さい。



日本だと「先輩・後輩システム」に放り込まれたらイチローやオオタニサンみたいな傑物も一定期間「後輩」としてフォロワーシップやらされるし、普通の人もオオタニサンみたいな人の「先輩」としてリーダーシップ「取らなければいけない」(想像すると大変そう) 日米どちらがいいかは向き不向きですね。

日本の「先輩・後輩システム」は万物と同じく良い面と悪い面があるのでしょう。

 

 

 

『流暢性の錯覚(幻想)』と『望ましい困難』 

結論は「自動翻訳でもなんでも便利に使ってじゃんじゃん情報を浴びるべきやろ」なんですが、「個人的に」医学論文は原文のまま読んだほうがよいと思うところがある。その理由をずっと考えていた。

 

あくまで個人的な感情論で、他人に押し付けるつもりはまったくない。

分からぬ単語を辞書で引き引き英文や仏文で書かれた論文を1行1行ちみちみ読むというのはいかにも効率が悪い。

そんなことに時間を取られるくらいなら、自動翻訳でもなんでも便利に使ってじゃんじゃんバリバリ出血覚悟で論文たくさん読んだほうがよいに決まっている。

 

だがあくまで心情的に、なかなかそこまで割り切れないでいた(いる)。もちろん頭ではわかっているんですよ。

たぶん立ち位置にもよるのだろう。

自分が今、研究の最前線にいるのなら大量に情報を咀嚼してゆく必要があるから、割り切って自動翻訳を駆使すると思う。残念ながらネットばかりやっている。

 

理屈とポストイットはどこにでもくっつく。

「自分が」自動翻訳を駆使して英文論文を読みまくるのに消極的な理由は怠惰とノスタルジーと精神的老い(イヤだが仕方ない)以外に、『流暢性の錯覚(幻想)(The fluency illusion)』を恐れ、論文を読むのに『望ましい困難(Desirable difficulties)』があったほうがよいとうっすらと感じているからだと思う。

『流暢性の錯覚(幻想)』とは〈表面的に情報が処理しやすくなったことで、実際には内容を記憶し深く理解していないのにもかかわらず、覚えた気になってしまう、理解した気になってしまう心理的な現象〉であり、『望ましい困難』とは〈ある程度積極的に自分の脳に負荷をかけること〉だという(安川康介『科学的根拠に基づく最高の勉強法』KADOKAWA)。

 

まあでも何事も自分の好きにやればよい。

私は好きにした、君らも好きにしろ、というやつである。

ぼくはぼくで、覚えたばかりの『流暢性の錯覚(幻想)』と『望ましい困難』という単語を使えたから満足だ(←アウトプットを意識した勉強法)。

 

 

「定年延長の流れでぼくら歴史学やってる者が危惧していることがあって」 ある時、近現代史学者のK先生が言った。

「定年延長の流れでぼくら歴史学やってる者が危惧していることがあって」 ある時、近現代史学者のK先生が言った。

 

「それは郷土史家がいなくなることなんですね。

 

今までは、いろんな地方で仕事を引退した公務員のかたとか地域の人とかアマチュアの歴史家がコツコツとその地域の歴史を調べてそれぞれの地域の郷土史を書いたりしていました。いろんな地域の公民館とか図書館とか行くとそういう郷土史が読めて、ぼくら研究者はそういうのでずいぶん助けられてるんです。

でも定年延長で生涯現役とか言われちゃうと、引退後にコツコツとその地域の歴史をまとめていたようなアマチュアの郷土史家がいなくなっちゃう。

そういう郷土史家の消滅っていうのをね、ぼくら研究者は今危惧してるんです」

 

引退後に歴史を研究し一冊の本として残すのを楽しみにするなんて、古き良き時代のイギリス紳士みたいだ。古き良き時代のイギリス紳士の理想の隠居生活といえば、一冊のイギリス史を書き残すかサセックスの丘に引っ込んで養蜂家となるかだと聞く。

 

アマチュア(amateur)という言葉はフランス語の「アマチュール/amateur、(何かを)愛する人」からきているそうで、郷土への深い愛情がアマチュア郷土史家を突き動かしているのだろう。

定年延長によりアマチュア郷土史家の持つ、地域への愛情が消えることはないが、何しろ時間とヒマが無くなるのでは研究は出来ない。

 

時間とヒマがないと研究はできないといえば、郷土史研究のもう一つの担い手といえば地域の教員だ(あるいは教員“だった”)。

中学や高校で歴史を教えつつ、自分の楽しみのため郷土史を研究をする。そんな教員のかたがたがこれまた全国にいる(あるいは“いた”)。

ただそうしたかたがたもまた、教員としての仕事が爆増していることにより、活動量は激減しているという。

 

現在を忙しく生きることでアマチュア郷土史家が減り、我々は過去を知る術を失い、過去と分断されてしまう。

あるいは現在を忙しく生きることで子育てなどが重荷となり少子化が進み、今度は未来を失う。

 

過去と未来から分断され、現在をただただ忙しく過ごす我々は、いったい何をしているのだろう。