船橋市・中條医院を継承いたしました(その3)

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船橋市の中條医院を継承して2週間が経ちました。

毎日「ふなっしートレイン」に乗って通勤しております(本当)。

新京成×ふなっしー地上降臨5周年プロジェクト コラボ企画関連 - 新京成電鉄株式会社


新しくクリニックを始める機会などはそうそう無いので、記念に思いのたけを書きとめております。
前回、前々回はこちら↓ というわけで続きを。

 

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「で、お前はどうする?」

東京を取り巻く千葉、神奈川、埼玉、茨城のベッドタウンの医療リソースが手薄なことや、比較的軽症で安定している患者さんに対する維持的・早期発見目的の医療リソースが減少しつつある、なんて問題意識を前回、前々回書いてみました。これらはいうなればマクロ視点の話です。
で、マクロ視点の話は一段落させて、今度はミクロな視点での話。

医療行為が制度や法律によって左右されると痛感したのは2000年代のはじめのころ。
ぼくが医者になったのは1999年。介護保険が施行されたのは2000年(①)で、ギリギリ介護保険前の時代を医者として垣間見ることができました。
介護保険が出来てから家族の負担は明らかに減って、制度によって救われる人がたくさんいることをみたわけです。

もちろん制度改変は現場にとっていいことばかりではなく、例えば2000年代のはじめには唐突に「療養病床38万床削減」なんて話が出てきて混乱したり、「脳梗塞の場合、健康保険を使って病院でリハビリが出来るのは180日まで」(②)というルールが出来て困ったりもしました。

医療問題(③)の一定数はマクロ的な制度の問題、システム・エラーであると感じて、本を読んだり勉強会に出始めたのが2000年代半ばころ。

で、良い本読んだり勉強会に出たりしていろいろ学んで、それはそれでいいんだけど、いつも最後に聞こえてくるのは「で、お前はどうする?」という心の声だったわけです。
今まで知らなかった知識を得た、あるいは医療制度・医療政策の理解が深まったのはいいんだけど、じゃあその知識をどう活かすか、理解を行動にどうつなげるかといわれると、直接自分の診療行為が変わるわけではない。
行動につながらない知識や理解をどれだけ増やそうが、それは知恵ではなく単なる「お勉強」に過ぎないのではないか、と心の声が問うわけです。

あるいは、医療政策や医療制度について学べば学ぶほど、「まったく新しいことというのは役所の机の上で生まれるわけではない」ということがわかってきました。
訪問診療の公的制度ができる前から堀川病院では早川一光先生たちが患者さんのお宅を訪問していたし、もちろん昔から往診(④)というのもあった。
医療に限らず、公的制度というものは海外含むどこかでうまくいっている先行事例・成功事例を見つけてきて、それを全国展開するにはどう予算をつけ、どういう法律を作ったらよいか徹底的に研究して制度になるわけです。役所の人の頭の中だけから生まれるわけではない。新しいことが生まれてくるのはいつだって現場です。

かといって現場だけでは「いいこと」って全国展開できないし、現場の暴走・独りよがりの落とし穴もあるから、現場と役所は車の両輪ですね。

あるいは、医療に限らず地域おこしの成功事例の現場の聞き込みにいくと、必ずそこには「人」がいます。「誰々さんが来てから流れが変わった」「誰々さんがいなかったらうまく行かなかった」って話が、絶対に出てきます。

成功事例には仕掛け人だったり、強力なサポートしてくれる人だったり、成功事例にはかならずキーパーソンがいます。「○○システム」とかだけでは事態は動かない。

もっとも、半永久的にその成功事例が続くためにはキーパーソンだけに依存しすぎても続かないので、システム化が必要で、人とシステムもまた車の両輪なわけですが。

 

本を読むたび、勉強会に出るたびに聞こえてくる「で、お前はどうする?」という心の声にこたえるためには、なんらかの形で実践者にならなければならない。「で、お前はどうする?」の心の声もまた、中條医院を継承する一つの要素でした。

 

 <「多くの仕事をしようとする人は、いますぐひとつの仕事をしなければならない」

 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド 1744~1812>(⑤)

 

Destroy your business,あるいは「未来の医療は今と同じだろうか」

 

Destroy your business、あなたの仕事を破壊せよ。フィリップ・コトラーの言葉だと思い込んでいましたが、今回ググりなおしてみたらウェルチの言葉なんでしょうか(⑥)

誰か(や何か)があなたの仕事を破壊する前に、自分自身で自分の仕事を破壊せよ。どうしたら自分の仕事を破壊できるか考えることが新しい仕事の創造となる、ということで、ぼくにとって非常に魅力的な考え方です。

例をあげてみます。パソコンゲームで一世を風靡した会社がありました。しかしパソコンゲームで売り上げを挙げているうちに、携帯電話が出てきた。携帯電話というものは電話だけでなくゲームもできるらしい。このまま放っておけば、携帯電話用のゲームがどんどん成長して、パソコンゲームを駆逐するかもしれない。
どこか別に会社に携帯電話用ゲームで自分の会社が「destroy」される前に、自分たちで携帯電話用ゲームを作ってしまう。自分で自分の仕事を「destroy」する。

あるいは、ガソリン車を作っている自動車メーカーが、新興の電気自動車メーカーに「destroy」される前に自分たちで作っちゃう。

(もっといい例が出せるといいけど、力不足)

ぼくが従事している医療という分野は、継続性が大事なので、「リセット」する必要はありません。今まで通りに安定して良い医療を提供するのが何よりも大事です。そう簡単に「destroy」しちゃいけないと思う。

でも一方で、目を閉じて10年後の医療や病院を想像してみると、今と同じはずがない。
例えば昔はがんになれば治癒は望めない時代もあった。病院だってクレジットカード払いなんかなかったし、遠隔診療もなかった。
誰かが新しいアイディアを考えだし、新しい技術がもたらされ、新しいサービスが日々生まれていく。古いものはやはりゆっくりと「destroy」されていく。

 

今はまだ開発中の、涙で血糖値を測るコンタクトレンズ(⑦)が普及すれば、糖尿病のケアももっと楽になるし、そのほか思いもつかないような技術が、新しい医療を作っていく。ヘルステックと呼ばれる超魅力的な分野が毎日新しい地平を開いているのが今という時代です。

 

たぶんもう始まっているこのヘルステック革命、ヘルステック祭りにユーザー側として参加したい、というのもひそかな望みでもあります。祭りには会場が必要だし、参加するのにいちいち上司の許可をとらなくてよければ最高です。祭りは積極的に参加しないと楽しくないですからね。

 

なにより大事なD、そしてE

地域医療で大切なABCDというのがあります(⑧)。
Aはアンテナ。常にアンテナを張って、患者さんや地域の情報、新しい医学知識をキャッチする。
Bはバランス。医学的に正しいことと、患者さんが考えることがずれたり、最新の医学と地域の事情が合わない場合にうまくバランスをとる。

Cはコミュニケーション。患者さん、スタッフ、福祉・介護専門家や他のドクターとうまくコミュニケーションがとれないといけない。

Dはデイリー・ワーク。やっぱりね、デイリー・ワークがちゃんとできないと全ては机上の空論ですね。
とにかくまずDをしっかりやってまいります。
それができたら次はE。EはEnjoy,楽しみながら働いていきます!

(次でおしまいの予定)

 

厚生労働省介護保険とは」

http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12300000-Roukenkyoku/201602kaigohokenntoha_2.pdf

②平成20年からは、治療継続で良くなる可能性があれば180日を越えることもできるようになったとのこと。
厚生労働省資料

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r985200000079ry-att/2r985200000079tp.pdf

③雑な言い方ですみません。

④制度的には訪問診療と往診は別モノで、訪問診療は定期的に月2回とか訪問するもので、往診は患者さんが具合が悪いときだけ例外的に家に行くことですね。

⑤ビジネス哲学研究会編『心に響く名経営者の言葉』 PHP研究所 2008年 p.110-111

Kill Your Business Model Before It Kills You

⑦Forbes  JAPAN 2017年10月号 p.35など。
自治医科大学『地域医療テキスト』医学書院 2009年

 

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

 

 

 

船橋市・中條医院を継承いたしました(その2)

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船橋市にある中條医院を引き継いで1週間が経ちました。
今までやったことのないことばかりで冷や汗をかいたりもしていますが、スタッフやまわりのかたがたに助けてもらってなんとかやっております。
楽しく悩みながら前に進む日々です。
というわけで、前回の続きなど。

前回はこちら↓

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「80歳男性、ヘモグロビン10」を考える

血液検査でヘモグロビン(Hb、血色素)という項目があります。雑に言えばこの数字が低いと貧血で、正常値は男性13.5以上、女性11.3以上(①)。それ以下は「異常値」です。

カギカッコつきの異常値としたのは、高齢になると上記正常値より少し低めの人はゴロゴロいるからです。
で、ゴロゴロいる「異常値」の患者さんをかたっぱしから徹底的に検査したとしても、おそらくほとんどの場合、いわゆる病気は見つからないのではないかと思います。
しかしヘモグロビンが低い貧血の中にはいろんな原因があり得て、中には胃潰瘍などからの出血など緊急検査が必要なものもあります。
緊急対応をしたほうがいい場合と、そうでない場合を簡単に見極めるにはどうするか。一番シンプルなのは、過去との比較。

3か月前も半年前も、1年前も2年前もヘモグロビンの数字が10の人だったらたぶんあわてなくてよい。低め安定の場合ですね。

しかし3か月前はヘモグロビンが15あった人が今回の検査で10だったら、ほぼ確実に体のどこかから出血しているはずです。急激に低下してる場合です。
診察や検査というのは、ピンポイントで異常とも正常とも言い難いことが結構あって、過去の診察記憶やデータと比べないとはっきり言えなかったりするわけです。

ピンポイントで「これは病気だ!」って医者が断言できる場合はそれなりに重症なんですね。

過去との比較と同様に大事なのが、「経過観察」です。

はじめは軽い風邪かなと思っていても、次第に悪化して、後から振り返ると肺炎のなり初めだったなんてことはよくあります。一番最初は症状が軽くてよくわからないんですね。
一番最初は症状が軽くてよくわからないからこそ、医者は「少し様子見ましょう」なんていって数日後にもう一度受診してもらったり、場合によっては経過観察入院を勧めたりするわけです。
これはその医者の診断能力が低いからではなく、病気ってそういうもんで、人体はゼロかイチのデジタル構造ではないから。
その証拠に、今を生きる現役医師の中で世界最高峰の診断能力を持つ医者の一人、ローレンス・ティアニー先生が「経過観察入院」について、米国の現状に憂慮しつつこう書いています。

<米国を代表とするいくつかの国々では、在院日数を短縮する圧力により、入院しながら経過観察することが困難になってきています。経済的には損失かもしれませんが、アジアやヨーロッパのいくつかの施設では、患者は診断がつくまで十分な期間、入院が可能です。これは、複雑な疾患を診断するうえで有利であり、また、教育のよき土壌にもなりえます。>(②)

 

で、一医者として困ったことだと思うのは、たぶん日本もティアニー先生のいう「米国を代表するいくつかの国々」の仲間入りをしつつあるということです。診断がついてない状態で入院をしてもらい、直接的な治療をせずに様子をみることが、医療経済上不可能になっていくはずです。
また、大病院の外来では最近、薬を60日分とか90日分処方してくれるようになったことにお気づきの方もいるはずです。あれはなにも患者さんの便宜のため(だけ)ではなく、要するに毎月外来にきてもらうと病院外来がパンクしてしまうから。

「外来が混み過ぎて大変だから、5年分くらいまとめて薬出せればいいのに」と、とある大学病院の医者がベロベロに酔ったときに言ってました。5年分の薬って(笑)

 

大病院の外来が混み過ぎているため、「落ち着いているからあとは地元の開業医さんに診てもらってください」と言われれ紹介状を渡されたことがある方もいるでしょう。これもまた、安定している患者さんを定期的に診療する人的・時間的余裕が大病院に無くなってきているためでもあります。

 

で、患者さんサイドから考えると、定期的に医療機関で診察・検査などのチェックを受けるってことは非常に大事なはずです。冒頭の「80歳男性、ヘモグロビン10」の例のように、なにか軽い異常があったときにすぐに過去の記録や検査結果と比較して、早めに異常だと気付けるから。

しかし、安定している軽症・慢性期の患者さんをきっちりフォローする受け皿は足りないんですね。
高齢化が進み、病気になる方は増えます。オプシーボに代表されるように医学が進むと高額な薬品や手術も増えます。一方で、労働人口が減るので、健康保険料は伸びない。
これからの日本では、医療ニーズは増え、かかるコストも増えますが、財源は限られる。単純に一人当たり・一件当たりに使える公的なお金は減ります。残りは、自己負担か民間保険。自己負担が払えない人は…。
となると、病気になっても軽い状態のままなんとか安定させる、あるいは病気が悪化し始めたらすぐに気づいて食い止めるべく治療を強化する、というタイプの医療が必要になります。
大病院は中等度から重症の病気の医療や専門的医療、急性期医療に特化する。訪問診療は、長期の寝たきりの方などの慢性期・重症の方をケアする。

今まで大病院の外来が担ってきた慢性期・維持期の軽症の方、「なにかあったら入院できるように定期的に診させてください」と言っていた方がたは、もう大病院では診きれない状態になってきているのが、今です。
で、そこの受け皿になることを意識化・言語化できている医療機関は少ないんですね。
その役割を担おうと思ったのも、中條医院を継承した理由の一つです。

(あと1,2回続く)

 ①検査会社SRLサイトより 

http://test-guide.srl.info/kansai/test/list/20

ローレンス・ティアニー『ティアニー先生の診断入門』医学書院 2008年 p.17

 ティアニー先生の診断能力は超人的で、「68歳男性、腰痛と夜間頻尿、意識障害」という情報だけで「高カルシウム血症」と正しい診断をつけられたほどだとか(同書 p.47)。こういう一発診断をSlam Dunk Diagnosisというんだそうだが、未熟な医者がこのSlam Dunk Diagnosisをマネしようとすると大怪我をすることうけあいなので、ぼくは粛々とやっていきますが。Slam DunkNBAプレーヤーにまかせましょう。

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

船橋市・中條医院を継承いたしました。

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このたび、千葉県船橋市にある中條医院を継承することとなりました。
中條医院は約37年に渡り船橋市高根木戸のかたがたの健康を支えてきた医院であり、その伝統を引き継ぐ責任の重さに身が引き締まる想いです。

 

三県問題とは

信州の哲人医師、色平哲郎先生から「三県問題」について教えていただいたのは2010年ころの話です。
三県とは千葉県、神奈川県、埼玉県。東京周辺のこの三県では、住民数に比べ医療リソースが少なく、それがこれから顕在化してくるであろうというのが色平先生の教えでした。
厚生労働省平成26年データ(①)によれば、人口10万人あたりの届け出医師数は全国平均で244.9人。それに対し、埼玉158.9人、千葉189.4人、神奈川209.3人。ちなみに茨城県は177.7人で、いずれも東京323.4人に比べると人口10万人あたりの医師数は格段に少ないのです。
これらの東京周囲3県(茨城を加えると4県)の特徴は、高度経済成長に伴い若い人口が急増した過去があることです。急増した人口が若いうちは問題は目立ちませんでした。若い人は病気になりにくいから。また、千葉都民、神奈川都民という言葉があるように、仕事も病院も都内に通っているため地元の医療リソースが手薄であってもそれほど気にならなかったのです。
また、統計データはたぶんありませんが、東京都を主たる勤務地と届け出ている医師たちも、非常勤として週の一部は上記4県で勤務していたところもあるでしょう。

しかし高齢化に伴い、全国で医療ニーズは高まります。また、今まで都内の病院に通っていた方がたも、退職したり足腰が弱ったりして地元の医療機関にかかることになります。
そうした地元に回帰した方がたの受け皿となる医療機関は、まったく足りないはずです。


都心の医療、農村の医療、ベッドタウンの医療

京都の堀川病院で訪問看護の専門部門「居宅療養部」ができたのは1974年のことです(②)。それ以来、訪問看護、在宅医療は着実に広がりました。
患者さんが病院に通うのではなく、医師や看護師が患者さんの自宅に伺う。このスタイルは都心に向いています(③)。
訪問するお宅が密集していて、移動時間が少なく次々と患者さんを診る/看ることができる。都心では医師、看護師、理学療法士などの有資格者を集めやすいし、大きな入院施設を建てるには土地代も高い。純粋に経済学的な視点からは、在宅医療、訪問看護などは都心部向きです。
都心部向きの医療にはもう一つあって、超高度専門医療です。
稀な病気を専門的に治療する医療機関は、全国から患者さんがアクセスしやすい都心に位置するのが向いています。手術ロボットを使い超高度な心臓血管外科の手術をする病院や、甲状腺の病気に特化した病院、コントロールの難しい神経疾患の治療を行う病院などは、患者さんが全国から通いやすいように都心にオープンすることを選びます。また、治験などを行う医療機関も、製薬開発メーカーとの距離が近い都心に位置すると有利です。
超高度医療機関+訪問診療が都心に向く医療スタイルではないでしょうか(患者さんにとってはジェネラルな普通の病院も大事なんですが)。

農村の医療はそれに比べ、大規模施設が運営しやすいように思われます。
経営的視点だけからすると、農村エリアで訪問診療を採算に乗せるのは大変です。
訪問する家と家の間の移動が1時間かかったりすると、1日で回れる軒(件)数は8-10軒(件)ほど。全国一律の保険点数が前提ならば、都心と比べると不利です。
これに対し、土地代が安く有資格者以外の働き手を確保しやすいのが農村エリアの特徴です。
このため、リーズナブルな大規模介護施設などを造りやすいのは農村エリアです。
また、ジェネラリストの医師が活躍しやすいのもおそらく農村エリアです。
都市部の患者さんは専門医志向が強く、また移り気で転居も多いので、「継続性こそ信頼そのもの」(④)というジェネラリストの良さがわかってもらいやすいのは農村エリアではないでしょうか。
農村エリアの医療、ヘルスケアの特徴を無理やり言えば、ジェネラリスト+大規模入院施設ということになります。

さて、このたび私が医業を営む船橋市はベッドタウンです。
東京都心をぐるっと囲むこのベッドタウンでは、どんな医療スタイルが向いているのでしょうか。
超専門医療をやるには対象患者さんが限られるし、完全なジェネラリスト医療は良さをわかってもらうには時間がかかる。
おそらくベッドタウンに向くスタイルは、T字型クリニック、「すべてのことをいくつかずつ、いくつかのことを全て」(⑤)扱うクリニックではないかと考えました。
ある分野の治療に関しては超専門医療機関に負けないくらい知識がありつつ、専門特化しすぎない、そして全ての分野に関して、思い込みや経験だけに頼らずいわゆるガイドライン的なことをスタンダードにやる、というタイプのクリニックが、ベッドタウンには向くのではないか、そう思います。
一部は専門的にやるからこそ他の医療機関に対し個性が出せるし、互いに補い合える。そんなクリニックが、都心を囲むドーナツ状に増えていったら面白いんじゃないかと思いますし、そんなクリニックを目指します。

Yahooでピットで道祖神ーかかりつけ医とは何か

以前かかりつけ医とはなにか、と自問したことがあります。それで出た答えは、「かかりつけ医とは、Yahoo!でピットで道祖神である」。
茶道の裏千家16代家元、千宗室氏は「茶の湯は日本文化のポータルサイトである」とおっしゃっています(⑥)。
茶の湯には掛け軸があり、生け花があり、日本庭園がある。茶の湯とは全ての日本文化につながるポータルサイトであるということだそうです。
かかりつけ医もまた、最新の医療へのポータルサイトでなければなりません。自己流の治療で経験だけに基づく独善的な医療ではなく、常にスタンダードな知識を入れて患者さんに還元し、必要があればもっと高度な医療機関につなぐ。
googleではなくYahoo!としたのは、自分のところでもある程度患者さんのニーズにこたえるべきとの思いからです。

また、ピットはF1のピットのイメージです。
F1ドライバーが定期的にピットに入るのは異常がないかチェックを受けるためです。
定期的にチェックを受けることで大クラッシュを避けることができるわけで、大クラッシュになってはじめてピットに入るドライバーはいません。
ハードな現代生活を生きる現代人にとって、定期的なチェックが受けられ、自分の健康データが蓄積していく場所がかかりつけ医なのです。
後述しますが、大病院はこのピット機能を失いつつあります。外来が混み過ぎて90日分薬を出してくれる病院は増えてますが、その分主治医との接触機会は減るわけで、接触機会が減ればなにかあったときに「いつもと違う」と気づいてもらいづらくなるわけです。

道祖神とは、村=共同体を病気や災厄から守る守り神です。
インフルエンザや肺炎球菌などの予防接種は今では当たり前になりましたが、昔はインフルエンザで沢山の人が死んでいた時代もありましたし、肺炎は今でも主な死因の一つです。
地域住民に予防接種や健康指導をしっかり行うかかりつけ医は、共同体を病気から守る道祖神でもあるのです。

 

(続く)


厚生労働省データ 

平成26年(2014年)医師・歯科医師・薬剤師調査の概況|厚生労働省

堀川病院のあゆみ - 概要 | 社会医療法人 西陣健康会 堀川病院
③大前提として、健康保険制度のもとの医療体制および全国一律の保険点数の場合。
④グレアム・イーストン著『医者は患者をこう診ている』 河出書房新社 2017年 kindle版 4019/7382。グレアム・イーストンはイギリスのGPで、この本はイギリスのGPの普段の診療が垣間見えて興味深い。
⑤J.S.ミル『大学教育について』 岩波文庫 kindle版 271/2573あたりが出どころ。
千宗室『自分を生きてみる』 中央公論新社 2008年 p.23-25。千宗室氏はJ.P.ホーガンもお好きだとか(p.156-158)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

新党ブームは永遠に。

日本人って初物好きなんで、これからも定期的に新党ブームっておこるんだろうな、というお話。


元旦、新年、新学期。新人、新車に新製品。日本人は新しもの好きだ。神が宿る社さえ、20年ごとに新しく建て替える。
たぶん日本人の現世観が根底にあって、浮き世は憂き世だから、長く浮き世に存在しているといろいろケガレてくると感じているのだろう。
「日本をリセット」というのと「保守」というのは相容れない気もするが、リセットするとまっさらなキレイなものになるという日本人的心情に受けるんだろうな。
なんでもかんでもすぐリセットしたがるリセット業界には高橋アユム氏など人材も豊富だし、そのうちリセットマンが集まってニッポン・リセッ党なる新党でもできるんだろう。
日本で繰り返し新党ブームが起こるのに対し、永遠に新党ブームがこなそうな国はイギリスだ。悪評や黒歴史もないかわりに実績も経験もない新党なんか信用できるかい、というのがイギリス人の考えかたで、だいたい新しもの好きの人々はとっくの昔にアメリカに行ってしまった。
外山滋比古氏によれば「転がる石に苔つかず rolling stone gathers no moss」ということわざはイギリスとアメリカで真逆の意味を持つという。イギリスでは、転がってばかりじゃ苔=実績、信頼はつかないよ、という意味で使われ、アメリカでは転がってないとサビつくよ、という意味で使われるという。もっとも以前に若いイギリス人にそんな話をしたら知らなかったが、最近の若いイギリス人はフィッシュアンドチップス食べないからな。
いずれにせよ、新党ブームはまだまだ続くんだろうし、どうなることやら。

10月15日(日)、よみうりカルチャー北千住で公開講座『認知症との上手な付き合い方~家族の心得~』やります!

10月15日(日)、よみうりカルチャー北千住で公開講座やります!
題して『認知症との上手な付き合い方~家族の心得~』。
家族が認知症かもしれないと思ったらどうしたらいいの?
本人が受診を嫌がったらどうする?
家族ができることってなに??

紙の発明あるいはなぜ欧米人はプレゼンが上手か

結論、紙はすごい。

 

何年か前にネット上で見かけた話ですごく好きな話がありまして、題して「紙の発明」。

「紙の発明」、一言で言えば、もしデジタルデバイスより紙のほうが後に発明されたらその便利さに誰もが驚愕する、という話です。

デジタルデバイスだけで情報のやりとりをしているパラレルワールドで、ある日、紙が発明されたとする。

世界は震撼します。こんなふうに。
 「スクロールなしで見たい情報がすぐ見つけられる!」

「電源なしでどこでも見られる!」

「折っても曲げても情報が損なわれない!」

「何千年も保存できる!」

「めちゃめちゃ安価に作れる!高度な技術なしでも作れる!」

「あとからいくらでも書き込める!消すのも簡単!」

「無限コピーもしにくいしどれがオリジナルかわかりやすいから、著作権保護とか超便利!」

「本とかいってなにこれあり得ないんですけど!」

となって、
「デジタルデバイスなんてもう古い。まさに紙革命!」ってなるだろう、って話。

 

元ネタをいつぐらいに誰が言い出したのか検索したけどうまくひっかけられませんでした。ご存じのかた教えてくださいませ(①)。

元ネタがどんな文脈で語られたのかはわからないけど、新しいものが常に便利とは限らない、新奇性に目を奪われず、ものごとの本質を見て、状況に最適なツールを選ぶのが大事ってことでしょうかね。

 

実際、紙と人間の精神の関連は興味深いものです。

米原万里氏の書いたものの中で、欧米でロジックやプレゼンが発達したのは紙が東洋に比べて乏しかったから、というアイディアを見かけたことがあります。

東洋では豊富に紙があったからただ無為にだらだらと記録を書き連ねておくことができたけど、欧米では紙は貴重で、よっぽどのことでないと使えなかった。だからできるだけ記憶しやすい、されやすい形で記録を伝えなければならなくて、そのために欧米では覚えやすい形に事実を加工するためにロジックを形作る術が発達したり、起承転結のある物語の形で語るようになったみたいな話だったはず。事実の羅列だけでは聞いたほうも覚えにくいけど、論理性があったりストーリーがあったりすると覚えやすいですからね。

西洋/東洋の二分法も今どき流行らないけど、忍者の巻き物や西遊記のお経みたいに、秘伝や真理が書かれた書物を求めて様々な冒険が繰り広げられるなんて話は西洋でもメジャーなんだろうか。西遊記なんか、あれだけの苦労をしてお経を取りに行くくらいなら、自分で何年も修行して真理を探究するとかってやり方もありそうなもんですけど、お釈迦様が到達した境地に自分が達せられると思うのはおこがましいのかな。
西遊記では、お釈迦様の到達した真理を書いた紙=お経を求めるだけじゃなく、お経を書いたお釈迦様自身と会えないかトライしたりしてないんだろうか。確か孫悟空が世界の果てまで行ったつもりがお釈迦様の手の上だったってエピソードも西遊記の中にあるわけだから、星が入った球を7つ集めたりしたらお釈迦様来てくれそうな気もする。

それともあれか、本人よりも本人に関するグッズのほうが貴重になるフェティシズム的なあれの源流なのか西遊記

 

紙にまつわるエトセトラと言えば、最近の子どもはミカンの汁で紙に字を書いたりしないのかなーとか、J・P・ホーガンの『星を継ぐもの』の出だしで真紅の宇宙服の異星人が持っていたノートをトライマグニスコープで解析するところとか面白かったよなーとか、中島らもの『永遠も半ばを過ぎて』の中の書物のうんちくもいいよなー、こりゃあいいシボです、などなど連想は転がってまいります。
とどのつまり、こうしてとりとめもなく連想をメリハリや際限なく書き連ねて行ってしまうのもネットの悪いところで、これが貴重な限られた紙に書くんだったらこうはいかない。きっちり何文字以内かにおさめなきゃいけないし、文章の盛り上がりやオチなんかの構成も考えなきゃいけない。紙に書かずにデジタルデバイスに書くからこういうだらだらした文章になるわけで、

 

結論、紙はすごい。

ではまた。

 

注① 友人Tのご教示によると、「紙の発明」、言いだしたのはフィナンシャル・タイムズの人みたいです。T君、感謝。

もしコンピュータが誕生した後に、紙が発明されていたら…。 | 隠居系男子

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

棚にあげるか二階に行くか

もの言うことは、恥ずかしい。

どこかでそういう感覚が残っている人の言うことでないと、信用できない。そんな気がする。

 

週刊新潮9月21日号の五木寛之氏のエッセイの題名はこうだ。

<自分のことは棚にあげて>

そのなかで氏は、こう書いておられる。

<日々の暮らしぶりとか、健康とか、老後の生き方とか、いろんなことについてこれまで勝手なことをあれこれ書いてきた。正直言って忸怩たる思いがある。
(略)

「偉そうなことを言って、自分はどうなんだ」

という内面の声は常に心の中にひびいている。>(上掲書p.58)

 

人間は、他人のことをあれこれ言うのが大好きだ。誰かが不倫してケシカランとか国を侮辱したとかああだこうだと論評しては溜飲を下げる。

そこに一抹の真実はあるのだろうが、いや一抹の真実があるからこそ、他人を糾弾するときには気を付けなければならない。自らの正義と正論に酔って、暴走しちゃうんですね。
怪物を叩く者は、自分自身も怪物になることのないように気を付けなければいけない。世間という深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだってとこでしょうか。
非のうちどころのない完璧な人間でない限り、喜色満面で誰かを叩いているうちに「お前が言うな」という矢は必ず飛んでくる。

 

そしてまた、高級な理論や難しい言葉を振り回すのが大好きな人もいる。高尚な概念を一分の隙もなくパーフェクトに組み立てて、誰も反論のできないような正論を滔々とまくしたてる。

そういう人がみんなみんなご立派な私生活を送っているかというと、そうでもなかったり。


もちろん、みながみな「オレも他人のこと言えないし」とか「オレが偉そうに言うのもな」とかと口をつぐんでしまうのも考えものだ。
おかしな人やおかしなことへの批判が無ければなあなあの馴れ合いで社会はダメになるし、たとえきれいごとであったとしても正論や新しいアイディアを誰かが言い出すから世の中進歩する。

でもね、そこにちょっとだけためらいとか恥じらいとか戸惑いとかあるいは立派な自分自身も完璧じゃないけどでも言わずにはいられないみたいな諦観とか、そんなものが欲しい。ちょっとでいいから。

五木氏は言う。
<世の中に向けて何かを述べるということは、「自分のことは棚にあげて」言うしかないのである。>(p.59)。
もの言うことの気恥ずかしさと、それでもなお何かを述べたい述べなければという感情の間を揺れ動き続けている人、こういう人は信用できるよなあ。

逆に信用できないのはどういう人か。自分を棚にあげるんじゃなくて、自分ごと二階に上がって考えもの言う人だ。

 

二階にあがるというのは、瀬古公爾氏が著書『ぶざまな人生』(洋泉社 2002年)で使って表現で、普通の日常生活を一階、知的行為・インテリ的言動を二階に例えている。

瀬古氏は同書の中で、自らを何も考えずに一階に安住するでもなく、市井を忘れて知的遊戯に没頭する二階の住人にもならず、日常生活に足をつけながらも中二階でものを考え続けると宣言している(p.171-175)。
<この中二階は「ぶざま」ではあるが、わたしが二階をきらうのは、ふだんは二階(高級な観念)に上がりっぱなしで、一階(俗情)を見下ろしている者が、夜陰にまぎれてちゃっかりと一階に降りてきて、一階の住人以上の俗情を手に入れていたり、手に入れようと右往左往している姿がこのうえなく「ぶざま」だからである。ふつうに考えれば当り前のことだが、なんだ、ふだんは偉そうなことを言っているが、こいつもやっぱり金と女(男)と地位とモノが欲しいんじゃねえか、コノ二階ヤローが、と思ってしまうのである。>(p.173,174)

現実生活に立脚しつつ、時に知的な背伸びをしてものを考えるという中二階の思想というのは真似してみたいところである。

 

ネット普及期の幕開けには、匿名性のもとで誰もが社会的属性を離れて自由闊達に議論を戦わせることができるようになるのかと胸を躍らせたものだ。
肩書や性別や年齢などなどと発言・発想・アイディアが切り離されて流通し、純粋に発言・発想・アイディアの面白さや妥当性だけで勝負できる時代になったと期待した。

ところが時は流れ、過去の言動がデジタルデータで永久保存されいつでも検索できるようになると、「前と言っていることが違う」「発言が場当たり的だ」と批判されるようになった。

あるいは誰かがその気になれば発言者のプロフィールをサルベージして、「こいつはカッコいいこと言っているけど実生活ではこんなヤツです」と吊し上げることだってできる。
問題発言をネットですれば、あっという間に所属組織に連絡が行き、その結果慎重な人ほどきれいごとしか言えなくなった。
ネット以前よりも、発言は社会的属性や過去の言動に縛られるようになり、昔よりももっと「もの言えば唇寒し」という風潮になってしまったかもしれない。

 

誰もが気軽に意見を発信できるようになったこの時代、どういうスタイルに収束していくのかわからない。だがもっとわからないのはこの文章の収束のさせかたで、仕方がないからかわいいネコの画像でも貼っておしまいにしておく。

これからの言論は、いったいどこに行くのだろうか。

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