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経産省『次官・若手プロジェクト』の内容の「ツギハギ感」とその理由ー悪魔の代理人として。

2017年5月中旬くらいから経産省『次官・若手プロジェクト』のpdfが話題だ。

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

改めて読み直してみたが、一言で言えば「ツギハギ感」が目につく。レベル感や問題意識がバラバラの資料を一見体裁よく整えた、という印象を受けた。

具体的に述べる。
シルバー民主主義をどう乗り越えるか、というのがテーマの一つだが、「シルバー民主主義」の単語はp.49になり唐突に出現する。本来ならば、シルバー民主主義の定義や弊害の事例を提示した上で、かくなる事情でシルバー民主主義は克服しなければならないと論じ、そのうえで方策を提示するという流れが一般的だ。


また全体の構成も「1.液状化する社会と不安な個人」「2.政府は個人の人生の選択を支えられているか?」「3.我々はどうすればよいか」と、1.現状認識→2.問題意識提示→3.行動の呼びかけ、の体裁をとっているが、繰り返し読むと視点の一貫性に乏しい。
1の部の主語は個々人であり、個々の人々がそれぞれの不安を述べている。

2では大項目では政府を主語としていながら語られるのは「定年後にやることがない」「死ぬ間際に無理して“生かされてる”」「母子家庭では貧困が再生される」「非正規雇用で不安定」「若者の無力感」という話と、その後突然「ネットでの情報は偏っている」的な話。それぞれの主語がバラバラなのだ。
3では「抜本的に」社会のありかたを変え、高齢者を支える社会から子どもを支える社会に変えましょうみたいな話が出てくる。

政府観、国家観も統一されていないのも改善点である。
政府や国家というものが、「社会保障制度により個人の選択をゆがめる」=社会保障過剰・過干渉みたいな話をしたかと思えば、「母子家庭の貧困」=社会保障過小・手が行き届かないみたいな話が出る。
「個人の選択をゆがめている我が国の社会システム」という口調からは政府・国家は個人の選択へ影響をできるだけおよぼさないほうがよいという思いを感じる反面、「多様な人生にあてはまる共通目標を示すことができない政府」というフレーズからは、政府は国民に共通目標を示すべきという思想を感じる。前者と後者は本来真逆の方向性のはずだ。

また、2.「政府は個人の人生の選択を支えられているか」パートの(1)の①~⑤の項目はそれぞれ対象人数や予算規模、ライフステージがバラバラなものを五月雨式に並べているのも気になる。それぞれに割かれた資料のボリューム感もちぐはぐだ。
例えばこれが対象人数やインパクトの大きいものから並べたり、個人の誕生から死というライフステージ順に並べたりするなど、より読みやすい資料になる並べ方はあるだろう。
また、ライフステージでいえば、人生100年時代には夫婦関係パートナーシップのあり方も変わることが予想される(リンダ・グラットン他『LIFE SHIFT』東洋経済新報社 2016年 第9章)。今までと夫婦関係・家庭のありかたが変わるというのは既婚者にとって非常にリアル感があるが、そこらへんの言及がないのは参加メンバーに既婚者が少なかったせいかもしれない。

上記のようなところが当該資料の「ツギハギ感」の具体例である。

さて、なぜこうした「ツギハギ感」が残ったのかを推測してみる。
仄聞するところによると、今回のペーパーは経産省の20代から30代の若手キャリアによってつくられたという。その形成プロセスが「ツギハギ感」のもとになっているのであろう。

おそらく今回の議論は、まずはブラウンペーパー法をもとに開始されたはずである。

ブラウンペーパー法はカレン・フェラン著『コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』(大和書房 2014年)のp.78-80に出てくる方法で、アナログで<ハートに訴える>検討方法だ。ブラウンの大きな模造紙にペタペタとメモしたポストイットを貼ったり問題の構造を書きこんだりしながら違う部署の担当者同士で議論する方法で、カレン・フェランはこれを最も効果的なディスカッション方法だとしている。

 

経産省のこのプロジェクトはこんなふうに始まったのではないだろうか。
「えー今回、『次官・若手プロジェクト』ということで、局のカベを越えて、ぜひフラットに平場で議論できればと思います。日本の中長期的な政策課題を考えるというわけで……とりあえず参加者のみなさんが、どんな問題意識を持っているか言ってみようか」

「…やはり今問題になっているのって、格差問題じゃないですか。特に母子家庭の貧困問題とか深刻だし」
「終末期医療の問題もありますよね。日本の医療費って、多くが死ぬ直前に使われるんです。意識もないまま胃ろうとかで寝たきりのまま何年も病院に寝かされてるって人がたくさんいるんです」

「自宅で死ねないのも問題だよね。外国だとみんな自宅で死んでるのに」

「やっぱり高齢者にばかりお金が行ってるよね。若者は非正規ばっかりなのに」

「大学とかのポストもそうじゃないですか。ぼくの同級生も、大学に残ったのに任期付きポストばかりでいつも不安って言ってます」

「やっぱりシルバー民主主義だよねー」

高齢者はほら、票を持ってるから。そっちの政策ばっかりプッシュされちゃうんだよね。この間、(質)問取りでレクに行ったらさ…○△××で」

「あるある(笑)」
「えー収集つかなくなってきたので(笑)ちょっとここらへんで手を動かそうか。ポストイット配るので、それぞれの問題意識をどんどん書き込んでみて。時間は10分です」
(参加者、ポストイットに書き込む)

「じゃあ回収します。これをグループ分けしてみようか。んー『定年後の居場所がない』、『高齢者はテレビばかり見ていて非生産的』…ここらへんは<定年後>みたいなテーマだね。それから『終末期医療』『医療費をどこまでかけるか』みたいな話、子どもの問題、貧困の再生産…なんかでメモが一山できるね。ちょっとこれまとめてホワイトボードに書いてみて」
「これからどう進めます?」
「とりあえずさー、今出た5つの話をもうちょっと深堀りして情報を集めよう。仮決めでいいんで、担当分野決めようか。<定年後>について調べたい人、手あげてください。○○さん、△△さん、□□さんね。<母子家庭の貧困>、やりたい人は?☆☆さん?人数少ないけどだいじょうぶ?」

「ぜひこのテーマやりたいです!」
「じゃあ人数少なくて大変だけど、よろしく。<若者>は?◎◎くん、●●さん」

「大学の同級生とかに話聞いてみます!」
「じゃあよろしく。次回までに情報集めてもらって、簡単でいいんでそれぞれプレゼンしてもらおうか」
(以下略)

まったくの邪推であるが、こんなふうに会議は始まったのではなかろうか。
ここでいくつか落とし穴がある。
「フラットな関係性を意識しすぎるあまりリーダー/ファシリテーターの遠慮」「情報偏在によるバイアス」「ヒュームのギロチン」である。


続きはそのうち。
繰り返しになるが、今回の『次官・若手プロジェクト』に関し、作成と公表・拡散については強く支持する。内容をああだこうだいうのも参加メンバーの人格攻撃をしたいわけでも全否定したいわけでもなく、悪魔の代理人として議論を深めたいという一心である。
誰に頼まれたわけでもないのに我ながらしつこいが、そもそもからして悪魔というのはしつこいし頼まれもしないのにやってくるものなのだ。

 ではまた。

↓しつこく宣伝。

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経産省『次官・若手プロジェクト』の作成と公表・拡散を革命的情熱をもって熱烈歓迎する理由。

先日出回った経産省『次官・若手プロジェクト』について、ネット上では批判と絶賛が渦巻いている。

正直言って、仮に同じ完成度のものをどこかのシンクタンクコンサルタントが作ってもってきたらお金を払う気になるかと考えると、内容について絶賛する気にはなれない。だがそれでも、本ペーパーを作成したことおよび広く公表・拡散し議論に火をつけたこと自体については強く歓迎したい。


小宮隆太郎らによる『日本の産業政策』(東京大学出版会 1984年)によれば、日本の産業政策は敗戦から1980年代の間を3つに分け、それぞれの時期に傾向があるという。

1つ目は敗戦から高度成長に入るまでの復興期。復興期は、戦時統制経済の延長線上で、官僚統制型の経済運営が行われた。
2つ目は1970年ごろまでの高度成長期。高度成長期は、官主導・統制経済を志向する行政機構と民間の企業家精神-いわゆるアニマル・スピリット-とのぶつかり合いの時代。

3つ目は1970年以降の高度成長が終わり、石油ショックにゆれたあとの時代。この時代には行政機構は官主導の限界を感じつつ、技術・知識に対する補助や衰退産業への調整援助を産業政策の中心とした。

上掲書『日本の産業政策』が強調する点の一つは、敗戦後の日本の経済は「日本株式会社論」がイメージさせる官主導の疑似統制経済ではなく、<民間のイニシアティブとバイタリティ>によって牽引されてきた面が大きいということである。少なくとも同書の視点からは、敗戦後は官がすべてをお膳立てして民は活躍しないというのは大きな誤解だったということが言える。

その上で同書が指摘しているのは、<日本の産業政策として、(略)、かなり有効であったのではないかとわれわれが考えているのは、さまざまな審議会やビジョン行政および経済計画の作製・公表などを通じる情報の収集・処理・伝達の機構である。(略)これらの審議会を通じて各企業は他産業・他企業の将来的な見通しを得、それによってより明確な将来見通しを得ることができたこと、また、さまざまな政府計画によって、政府の将来経済見通しを理解し将来の政策の予想を樹てる(「樹てる」はママ)ことができたことは、価格機構とくにその情報上の限界を補完するものとして有効だったと考えられる(略)>(上掲書p.482)ということである。

要するに、政府やいくつもの企業が互いに相手の腹の探りあいをするのではなく、情報の収集・処理・伝達を官が行うことで、ステークホルダー同士が効率的にそれぞれの将来ビジョンを描くことができたのが、日本の産業政策のキモであった、ということだ。

(同書が出版されたのは30年以上前なので、日本の産業政策について新しい知見、別の見方が登場していると思われることに留意)

日本の産業政策の有効な方法が情報の収集・処理・伝達であったとすると、今回の『次官・若手プロジェクト』はその系譜に乗りうる。

今回の内容のステークホルダーは企業ではなく国民全員だ。経産省の若手の現状認識を「伝達」することで、各国民が次の生存戦略を考える一助となるわけである。

完成度が必ずしも完璧でない状態で公表・拡散に踏み切ったこともむしろ歓迎したい。
行政機構の仕事の流れはおそらく下記のような順番で行われる。
すなわち、

①現状を認識する(政策立案者は世界・日本・社会をどうとらえているか)→②あるべき姿と比較する→③現状とあるべき姿のギャップを埋めるべく政策として形にする→④現業サイドなどがアクションをとる

 

最悪なのがいきなり④が行われることだ。

国民もほかの行政機構も①から③を知らされてないまま、突然④のアクションが取られると大混乱だ。他者に寝耳に水で④のアクションが取られて国家として収集がつかなくなった事例として戦前の関東軍の諸行動を挙げたら突飛だろうか。半藤一利『昭和史1926-1945』(平凡社ライブラリー 2009年)なんか読むと、しょっちゅう現場の判断でとんでもないことが行われて、上層部が事後承認みたいな話が出てきてくらくらしてしまう。
それに比べたら①、②の段階で公表・拡散してくれたほうがはるかに望ましい。適切な批判や指摘を聴きいれて修正・バージョンアップしてくれるならという条件付きだが。

立派な政策として強固なものを打ち出す前に、①、②の段階で世に問うてくれたほうがよいのはなぜか。
われわれがこれから迎えるのは急激な変化が加速しつづける時代、「アッチェレランド」だからだ。
「アッチェレランド」は音楽用語で「次第に早く」の意味で、科学やテクノロジーの加速度的な進化・変化に伴い、人間の生き方や社会のありかたの変化もどんどんと加速し続ける時代のことである(英『エコノミスト』編集部『2050年の技術』株式会社文藝春秋 2017年)。

 

変化が加速し続ける時代、アッチェレランドでは誰も先のことなんかほんとうにはわからない。変化が変化を生み、事態は変わり続ける。
そんなアッチェレランドの時代の生存戦略はおそらく、「β版の思想」が必要となる。

工業製品が故障や不具合があるまま販売されることは許されないのに対し、ソフトウェアは未完成品、β版の状態からバンバン市場に出回る。

なんの不調もない完璧なソフトウェアを作り上げてから市場に問うより、多少荒削りでも市場に出してユーザーに使ってもらい、積極的に改善点を指摘してもらうのが「β版」だ(あってる?)。

これから社会全体が「アッチェレランド」に入れば、時間をかけて完璧な政策を作ってから世に出しても間にあわない。であれば、荒削りのプロトタイプのまま世に出して、問題点・改善点をどんどん指摘してもらって手直ししながら政策を練っていったほうがよいということになる。
今回のペーパーも、健全な批判・指摘が受け手側である国民サイドからなされ、それを取捨選択しながら取り入れられることができれば、「β版の思想」の体現となるだろう。

実際、もういい加減、無謬性の神話を降ろす時期ではないだろうか。
「私、失敗しないんで」という無謬性神話は、官も民も、ぼくのいる医療業界も、みんなを苦しめる。
医療業界では20世紀の終わりに米国医療の質委員会が『to err is human 人は誰でも間違える』と宣言して、医療ミスは起こり得ることを前提にシステムを組み立てることを提言した(が、いまだに日本の医療業界には浸透していない気がする。「ヒヤリハット」はミスした罰や見せしめに書くものじゃないはずだ。閑話休題)。

 

無謬性神話は行政においても不経済でもある。

鳥取県知事片山善博氏は著書の中で固定資産税の課税評価についてこう述べている。
<大切なことは、人間のやることには間違いがありうるということを前提にして、其の間違いを速やかに直す仕組みを用意しておくことである。(略)
 残念なことに、市町村によっては固定資産評価審査委員会に対する不服申し立てが出てくることを極端に避けようとする姿勢が見られる。しかし、不服申し立ては避けるべきものではなく、むしろ歓迎すべきものだと観念しておいたほうがよい。というのも、大量の固定資産の評価を一つひとつ全て間違いなく処理するためには、幾重にもチェックして完璧を期すほかはないが、それには膨大なコストを要することになる。それよりも、そこまでコストをかけず、もし間違いやミスがある場合には納税者からそれを指摘してもらう仕組みにしておいたほうが、よほど経済的なはずである。>(片山善博市民社会地方自治慶應義塾大学出版会 2007年 p.50-51)

今回の経産省『次官・若手プロジェクト』も健全な批判・指摘があればそれをどんどん取り入れていただきたいし、だからこそぼくは人格攻撃もプロジェクトそのものを全面否定も大反対なのだ。

今回の『次官・若手プロジェクト』に対して痛烈な批判をしている一人が常見陽平氏であるが、氏のスタンスに抵抗があるのはそんな理由だ。

 

「民主主義体制において、政府というのは<彼ら>ではなく、<我ら>なのです」、とヒラリー・クリントンは言った(『村中みんなで』あすなろ書房 1996年 p.321)。
脱官僚」の旗印のもと官僚機構を嫌悪して全面否定してもものごとがうまく回らないことを、ぼくたちはしばらく前に学んだはずだ。
政府が<彼ら>ではなく、<我ら>であるならば、無暗やたらに敵視するのは最後の最後までとっておくべきだと思う。
それよりもβ版の段階で現状認識やあるべき姿を共有し是々非々で議論を行い、よりよき共通の感覚を形成し、そうして作られた新たな共通の感覚=コモン・センスに根差した政策が練られることを期待したい。

それにしても、やはり『次官・若手プロジェクト』を公表・拡散したのは素晴らしいことだと思う。黙ってれば余計なことを言われないで済むのに、問題提起のために批判も覚悟の拡散だったのだろうか。
あるいはもしかして、総理のご意向が忖度でもされたのだろうか。最近忖度されやすいみたいだし。

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悪魔の代理人として経産省『次官・若手プロジェクト』を読む。

日本に必要なもののひとつに悪魔の代理人、devil's advocateというのがある。
ある考えについて議論や検討を深める目的で、わざと批判的なことを言ったり反対意見を言ったりする役回りの人のことだ。 

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先般話題になっている経産省『次官・若手プロジェクト』を、悪魔の代理人となって読んでみた。『次官・若手プロジェクト』pdfはこちら↓

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf


悪魔の代理人は議論を深めるための役回りなので、誰かを人格攻撃したり『次官・若手プロジェクト』ペーパー自身が無意味と言いたいわけではないことをあらかじめ念押ししておきたい。

まず第一印象は『頭のいい人たちが、エラい人たちに「若い人たちは頼もしいね」と言われるために作った見栄えのいい資料』という感じ。
エラい人に頭を撫でられるためには、エラい人たちが感じていること、思っていることを先回りして察してあげて、一見新しい風の形式で発表してあげるとよい。
間違えてもエラい人たちの心の中にある既存概念をおびやかしてはいけない。

「俺たちは定年越えてもがんばってるのに高齢者の多くはテレビばかりみていてケシからん。それもこれも全部国の社会保障が甘いせいだ。これからはグローバルな世の中だよ、キミたち。インターネットとかもっと使って、なんかこう抜本的に社会のありかたを変える必要があるんじゃないかね?幸福ってのはお金じゃないしね」という、功成り名を遂げた年配のエラい人の心象を汲んであげてカタチにしてあげれば喜ばれるというものだ。

だいたい頭のいい人っていうのはエラい人好きである。
『次官・若手プロジェクト』のメンバーの過半数はそういうエラい人好きなのだろうと邪推する。資料2ページ目の意見交換相手の顔ぶれはみな「○○教授」とか「○○長」とかいう大御所級の人々ばかりで、今ギラギラと油ギッシュに活動しているような、「エネルギーがあふれるけど賛否両論、敵も多いけどなにかやらかしそうな人」はいない。
ヒアリング先からして無難な感じで、「なんでそんなヤツに話し聞いたの?」みたいに批判される恐れのない相手ばかりのセレクトであろう。

新しそうに見えて新しくないというのもキモだ。
本当に新しい概念というのは、聞く人を不安にさせる。エラい人に頭なでてもらうには、一見新しいけど実はそんなに新しくないくらいのレベルの話がよい。
社会保障制度が個人を甘やかす、なんてのは80年代のサッチャーレーガンのころから人気のある見方だし、さらにさかのぼれば1957年のアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』にたどりつく。
麻生さんあたりもその手のことはよく言いますね。

子どもたちへ投資、という話も、どういう立場で言ったかを除けば新しくない。阿部彩『子どもの貧困』(岩波新書)が出たのが2008年だ。
p.65の高齢化するアジアの話も、大泉啓一郎氏が2007年には『老いてゆくアジア』(中公新書)で問題提起している。
民が担う公という話も、特定非営利活動促進法NPO法)が施行されたのが1998年のことだし、民主党政権時代にはずいぶん「新しい公共」みたいな議論がされた。

別に新奇性だけがすべてではないが、歴史的経緯を知らないで「新しいことを提案します!」みたいに論ぜられていたとすると残念だ。

資料p.8の「2.政府は個人の人生の選択を支えられているか?」に列挙された①~⑤の各項目も、レベル感やレイヤー、規模が異なるものを並列して平気なのも気になる。コンサルに「これってMECEなの?」と冷笑されかねん。
たとえば①居場所のない定年後の問題と⑤活躍の場がない若者、の問題は(雇用としてとらえると)トレードオフ、両方いっぺんには解決できないかもしれない。
シニアを雇用延長するならその分若者の席は減るし、それがたぶん露骨に起こっているのがアカデミアの場だろう。任期付教官ポストのいかに多いことか。

論理展開、因果関係の詰めの甘さも気になるところだ。
p.32-33あたりも、「若者は社会を変えられると思っていない」ことと「新入社員の働く目的が楽しい生活をしたい」ことが因果関係なのか相関関係なのか無関係なのか詰めないまま雰囲気で流している。

それからなによりも残念なのは、経済産業省なのに「パイを増やす」論点が一つもないことだ。高齢者から子どもへの再分配の方向性を変えるってのは総論賛成な話だろうし、少子高齢化の日本でこれ以上経済成長の余地はないという気分はよくわかるけど、経済産業省が「パイの拡大」の話をしないで誰がするんだ、という気がする。
スマートグリッドの話も最近聞かないし、クールジャパンでインバウンドでウェーイって話も次の盛り上がりはないしなー。

資料を最後まで読んでも具体的な政策は出てこない。なんとなくいいこと言ってる気がするけどよく考えるとあたりまえ、みたいな、『あたりまえポエム』的な読後感のペーパーだった。
たぶん賛否が分かれるような、エッジの効いた提案は引っ込めて資料を作ったのだと思う。ぜひとも具体策盛りだくさんの、野心的な第二弾を期待したい。

 

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男と女-東京03風に。(R)

「それはさ、お前がオスとして相手を惚れさせてないってことなんじゃないの」
居酒屋でOさんの到着を待っている時のこと、隣の席から話し声が聞こえてきた。
先輩ビジネスマンと若手の後輩らしい。

「でも先輩、オレの嫁さんなんだからオレだって気持ち分かって欲しいっすよ。
そりゃ会社辞めるのは不安だけど、せっかくのチャンスだし、妻に反対されるとかはマジきついっす」
転職か独立の相談らしい。
先輩が言う。
「だからさ、さっきから言ってるじゃん。
嫁さんがお前のやりたいことに反対するってのはさ、お前が嫁さんのことをオスとして惚れさせてないって証拠なんだよ」
「力づくで言うこと聞かせるってことすか?」
「バカ、全然ちげーよ。お前ね、分かってなさすぎ。
 あのな、男だってそうだろう。
よく女に騙されて会社の金使い込むやつとかいるじゃん。
まあそれは悪い例だけどよ、あれみればわかるけど、男も女も惚れた相手だったらとことんついていく訳だよ。
だからさ、お前のカミさんがお前のやりたいことに反対してるってのは、お前がオスとしてカミさんをベタ惚れさせる努力をおこたってるってことなんだよ」
隣で盗み聞きしてるこちらまで叱られている気がして、僕は思わず縮こまってしまった。

 

「な、わかったか。わかったらいいから飲め!」
「…わかったっす。でも先輩、一つだけ言っていいっすか」
「なんだよ」
「すげー勉強になったっすけど、…先輩、そんなこと言っていまだ独身じゃないっすか」

 

嗚呼、日本の夜明けは遠い。
(FB2015年5月8日を再掲。「先輩」は東京03の角田氏の雰囲気でお読みください)

 

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現代ビジネス記事『政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている』に想う~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ(R)

gendai.ismedia.jp

先日、上記記事を読んで思い出した文章があるので下に引用してみる。

<まず企業側は学校教育の非能率を難じた。教師側も決してうまく行っているとは思っていなかったから、さっそく恐縮、改善しましょうとお人好しにもこれに応じた。
 調子に乗った実業界は、学校はもっと役に立つことをやれ、と注文をつけた。まっさきに槍玉に上がったのが、英語教育。読めるだけの語学ではしかたがない。会話ができて、手紙の書ける教育をしろと文句を言った。学校を出たらすぐ使いものになる学生をつくれ、というわけだ。
 虫のいい考えである。役に立たせたかったら、会社へ入れてから訓練するのが筋であろう。そんな手間はかけていられない。われわれの税金でやっている学校教育だ。もっとわれわれの都合を考えてくれてもいい、というのだろう。
 公私を混同した教育観だが、ほとんど批判を受けることなく天下を風靡した。(略)
 自分のプライベートな利益のために、パブリックなものを利用しようとする考えは、いついかなるときも、卑劣である。
(略)
 現在の学校教育が荒廃していないという人はすくないだろう。どうして、こんなことになったのか。企業と教育ママの身勝手、自分あって他あることを知らぬエゴイズムをふりまわした結果、学校が公教育の場であることをだんだんやめようとしているからである。
 役に立つ教育といったケチな目標でなされることが、子供の魂に火をつけるわけがない。さきの英語教育にしても、役に立つ英語のスローガンが広まるに反比例して、学習意欲は低下した。いまでは「英語などなぜやるのか」と、うそぶいてはばからない高校生がわんさといる。>
外山滋比古『ライフワークの思想』ちくま文庫 2009年 p.175-176)

 
 教育の話というのはしょっちゅう議論になる。
ほぼ100%の人が生徒として教えを受ける立場を十年以上経験しているので、誰しもが教育の「経験者」であり、何らかの考えを持っている。
「私の経験では学校はこうあるべき」とか「ぼくの経験からすると今の教育は間違っている」とかという議論が、エラい人たち(有識者という奴ですね)の間で戦わされ、その都度ニュースになっていく。

 

実は、教育問題について云々したくて冒頭の文を引用したのではない。
面白いことに、上掲書の初出は1978年で、この外山滋比古の上のエッセイ『教育の女性化』は1970年代後半に発表されたものなのである。しかも冒頭の文章の直前には<昭和三十年ごろから財界の教育容喙は露骨になった。>と書いてある。
だから、エッセイの中で書かれている「学校はもっと役に立つことをやれ!」と財界が言ったというのは昭和30年ころの話なのだ。

 

教育問題の有識者会議で「実社会で役に立つ英語教育に変えていくべき」なんて話が今をときめく経営者から出たりするが、なんということはない、ずーーーっと昔っからそんな話をしているわけだ。
これを「変わらない教育現場」の問題と見るのか「繰り返される公教育への不当な干渉」の問題と見るのかはそれぞれの立場に応じて好きにすればよい。
ただ、一つだけ言いたいのは、どんな議論をするときもなにかプランを立てるときも、その問題の歴史的経緯をさらっとでもいいから振り返ってみてから論じたりプランを立てるべきだということである。
自分の経験だけでものを言ってはいけない
 古人曰く、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。

 

会議でもいますよね、「私の経験では」なんていって結論なしにずーーっと自説・持論を展開している人。
もっとも、そうした発言を垂れ流す人にどう対処すべきかは、経験も歴史もなにも教えてくれないが。
(FB 2015年4月12日を再掲)

 

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5月15日月曜日20時から、渋谷クロスFMで『高橋ひろかつのradioclub.style』放送です!

明日5月15日月曜日、20時から渋谷クロスFMで『高橋ひろかつのradioclub.style』放送です!
お相手は旅人のアッキーこと大谷 明氏, ゲストは東京大学大学院で医療福祉の生産性を研究中の阿部真美さん。明日のテーマは『あたりまえ&生産性』です。

20時から上の渋谷クロスFMサイトでご視聴できます!

ぜひごらんください!

www.shibuyacrossfm.jp

 

独裁、マネー、民主主義(R)

「民主主義って正しいってみんな無条件に信じてるけど、ほんとかな?
日本は確かに民主主義だけど、<失われた10年>なんて言われるようにずーっと経済がうまくいっていないよね。
それに比べてシンガポールはたしかに独裁国家だけど、ぐんぐん経済発展している。
そういうシンガポールに住んでいると、民主主義が絶対的に正しいなんて疑問に思うんだけど、どう思う?」
シンガポールで活躍しているNさんにそう話を振られたのは数年前。
唐突にそんな話を振られてぼくはちょっと面食らったけれど、なんとか答えをひねり出して言った。


民主主義と独裁国家ですか。
うーん、民主主義のほうが<勝率>が高いんじゃないでしょうか。

勝率?
Nさんが聞き返す。

確かにシンガポール独裁国家で経済発展してるけど、経済発展してない独裁国家ってたくさんありますよね。アフリカ大陸なんか見れば、経済的に失敗してる独裁国家が山ほどある。
民主主義って物事を決めるのに右往左往して時間がかかるけど、暴走を食い止めたり問題が小さいうちに異論が出て軌道修正される仕組みがビルトインされてるから、民主主義のほうが国としての勝率が高いんじゃないでしょうか。
そんなことをぼくは言い返した。


Nさんはふーんとつまらなそうに言って話題は次に流れたけれど、その時のぼくの答えが正しかったどうかは今もってわからない。

後になって、そもそも問いの設定に無理があったことに気付いた。
<経済停滞した民主主義国家>と<経済発展した独裁国家>を比較してはいけなかったのである。

民主主義が独裁より優れているかどうかは、<経済停滞した民主主義国家>と<経済発展した独裁国家>を比較するのではなく、<経済停滞した民主主義国家>と<経済停滞した独裁国家>を比較するか、<経済発展した民主主義国家>と<経済発展した独裁国家>を比較しなければならなかったのだ。物事を比較して論じるには、検討する要素=変数を一つに絞らなければならないというのは実験の基礎の基礎である(ただし変数同士が独立事象の場合)。

 

まあ民主主義がよいものか優れたものかは運用次第でもある。ナイフで美味しい料理を作るか他人を傷付けるかは使い手次第なわけで、主義=イズムもまた然りなのだ。

 

大事なことなので確認しておきたい。
なにかものごとを比較するときには比較すべき要素を一点にしぼらなければならない。
つまり民主主義と独裁主義の優劣を比べて論じるには「経済発展している独裁国家」と「経済発展している民主主義国家」を比べてどちらに住みたいかを考えたり、「経済停滞している独裁国家」と「経済停滞している民主主義国家」を比べてどちらがマシかを考えなければならない。
ほかの条件を全部同一にして論じてはじめて、民主主義と独裁国家の制度としての優劣が決められる。

 

このことに気づかせてくれたのは飯田泰之著「ゼロから学ぶ経済政策ー日本を幸福にする経済政策のつくり方」(2010年 角川oneテーマ21)であった。
飯田氏は同書の中で経済学についてこんなふうに書く。


<(略)どうしても「経済学者はなにかというとカネカネ言うけど、世の中お金だけじゃない」という反応をされてしまうかも知れません。しかし、経済学者は「お金だけが大切」とか「お金さえあれば幸せ」なんて話はしていないのです。明確な目標に出来て、それゆえに具体的な対策がつくのがお金の問題だ。だからまずはお金に関する幸福度を上げることから始めようじゃないか(その他のことは別途、そして並行してその分野の専門家が考えればよい)というわけです。>(上掲書p.22)


<それでもなお「やっぱり経済成長よりも人間の幸福が重要ではないか」という反論があるかも知れません。例えば、「経済学者は『みんなにとって悪いことじゃないから経済成長』だと言う。しかし、政策の目標が幸福を目指すということなのであれば、それは必ずしも経済成長を目指すこととイコールではないはずだ。むしろ経済成長を犠牲にしてでも、もっと我々が幸福に暮らせるような社会を目指すべきなんじゃないか」といった批判が典型でしょう。しかし、このように倫理的で、そして一見尤もらしく聞こえる言葉ほど、よくよく気をつけなければなりません。
 経済成長とは別の幸せがあるーこれは当たり前のことでしょう。それを否定する人は(経済学者も含め)いないのではないでしょうか。まったくもって正しいがゆえにこの言及には意味がないのです。「カネだけが幸せではない」「カネがあっても幸せとは限らない」という主張から「カネがあると幸せになれない」という主張は導かれません。
 「経済成長をしても”別の幸せ”は特に下がるわけではない」ならば経済成長はあった方がよいでしょう。つまりは、他の事情を一定として経済的な豊かさが向上するならば、それはすばらしいことなのです。>(p.23-24)。

 

<他の事情を一定として>というのがキモで、もしお金を稼ぐために何かを犠牲にしなければならないなら話は変わってくる。つまり、お金は稼げるが過労死するほどの激務とか、家族や友人と過ごす時間すら売り払ってお金を得るなどは別の話だが、「他の事情が一定ならば」お金はないよりあったほうがよい。
冒頭の民主主義と独裁を比較する話も、「他の事情を一定にして」論じなければならない。

経済学では、「他の事情が一定ならば」お金はあったほうがよい。
お金で買える幸せは限られるが、お金で回避できる不幸はたくさんある。医療機関で働いていると毎日痛感させられる。

マクロ視点でみると富はあるに越したことはないのだが、しかしミクロで見るとそう単純に語れないところがおもしろい。

 

お金というものが発明されて以来、このマネーという奴は人間の悩みの種で様々な喜劇と悲劇を生み出してきた。
黒人音楽ブルースの主題で一番多いのは愛でも恋でも性でもなく、「マネー」だという(テレビ東京の番組「タモリの音楽は世界だ」で昔言っていた)。
日本文学の世界、特に諧謔文学でも、ありがちなネタしか無くて展開につまったら「それにつけても金の欲しさよ」とつけておけばよいといわれている。
すなわち、「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音/それにつけても金の欲しさよ」とか「秋深し 隣は何を する人ぞ/それにつけても金の欲しさよ」とか「まっすぐな道で さみしい/それにつけても金の欲しさよ」とかいった感じである(後ろの二例はなにかやらかしそうな気配がぷんぷんするが)。

 

こんなふうにたいていの場合、人間というものはマネーが無くて困るが、ありすぎて困ることもある。
シェイクスピアの『リヤ王』は、持てる者の悩みでもある。
遺産争いではなまじお金があるがゆえに親族同士血で血を洗う争いになる。
宝くじにあたった途端、会ったことのない親戚や親友がわんさか現れて身ぐるみはがされる。
アメリカで高額宝くじに当たった人は高率にその後自己破産するというし、MCハマーや多くのヒップホップスターたちも大金稼いで身を滅ぼした。日本だと小室哲哉や沖縄の歌姫の物語もある。
あればあったで困る、なければないでもっと困るというのがこのお金という存在なのだ。

 

人生に必要なのは希望と勇気とサム・マネーとチャップリンも言う。
サム・マネー、少しばかりのお金というのがチャップリンの憎いところで、これがつかむぜビッグ・マネーだったら浜省である。
ドンペリニヨ〜ン。

 

独裁と民主主義の話をしていたらいつのまにかマネーの話になってしまった。主義=イズムが使い手次第であるのと同様に、マネーもまた活かすも殺すも使い手次第だ。
そんなわけでもし悩みの種になるほどのマネーがある方がいたらぜひご一報いただきたい。
ひとの役に立つことこそ我が喜び、責任もって誠心誠意、ぼくが処理して差し上げたいと思う。

(FB 2015年4月24日、27日を加筆再掲)

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