「三密」無き世で、悲しみや悩みはどう語られていくのだろうか。
〈「いったい悲しみってやつは人生の親戚なのかね。柔らかいおべべにくるまっている
人の家にも住んでいるし、名声輝く人の隣にもちゃんと坐っている。(略)」〉(メナンドロス。プルタルコス『似て非なる友について』岩波文庫1988年 p.212より孫引き)
悲しみや悩みが人生の親戚だとすると、縁を切るのは難しい。どうにかこうにか程よく距離をとって、それでも付き合っていくしかない。たとえきらびやかなSNSとは相性が悪いものだとしても。
悲しみや苦しみ、悩みというのはひっそりと常に寄り添う。思えばアーヴィングの小説『ホテル・ニューハンプシャー』で主人公の飼う老犬の名はソロー、悲しみだった。
人生の親戚、生きることの伴侶である悲しみや苦しみ、悩みは、「三密」と相性がよい。
密閉・密集・密接ではなく、密室・親密、そして秘密。
悲しみや苦しみ、悩みはいつだって薄暗いバーカウンターの片隅や居酒屋の個室など密室性の高い場所で語られてきた。一人悲しみに耐えるときも、自室で閉じこもって時をやり過ごす。
本当の悲しみや苦しみ、悩みは、実名で語られる時は親密な者にしか打ち明けられないし、あるいは広く語られる時はアルコールアノニムスや匿名ブログや匿名SNSなど、匿名、秘密の名のもと語られてきた。
「三密」が禁じられ、密閉や密閉がなくなった今、無数の悲しみや苦しみ、悩みはどのように語られているのだろうか。
心の中に抱え込まれて、日々その姿を大きくしていっているのだろうか。
ポストコロナの新しい時代になったときに、我々はこの人生の親戚たち悲しみ苦しみ悩みと、どう付き合っていくのだろうか。
〈悩み多き者よ 時代は変わっている
全てのことが あらゆるものが
悲しみの朝に 苦しみの夜に
絶えず時はめぐり 繰返されている
ああ 人生は一片の木の葉のように
ああ 風が吹けば何もかもが終わりなのさ
流れゆく時に 遅れてはいけない
移りゆく社会に 遅れてはいけない〉(斉藤哲夫『悩み多き者よ』〉