落とし穴というのはどこにでもあって、手段と目的の取り違えというのもその一つだ。
コロナ禍の中、医療者の「命懸け」の医療活動を賞賛する動きが国内外で見られるが、「命懸け」せざるを得ないというのはいわば手段、プロセスであって、そこにばかりフォーカスされるのは返って危険だ。
「命懸け」をしていないと非難されるということにもなりかねないし、本来しなくて済む「命懸け」すら誘発してしまうのではないかと危惧してしまう。
こうした手段やプロセスと目的、結果との取り違えは、あらゆる分野でしばしば起こる。
特攻隊の悲劇なんかもそうだし、最近の「営業自粛強要団」みたいなのもそうだ。
「ステイホーム」は他者と物理的距離を取るための手段の一つだが、自己目的化すると浜辺で一人釣りをする(他者との物理的距離は十分)みたいな行為すら声高に非難したりすることになる。
手段と目的の取り違えというのは想像以上に我々の生活で起こっている。
「とにかく頑張ることが大事」みたいなのもそうだし、「一生懸命やれ」もそうだ。「心をこめて」とかも。プロセスを重んじるのもわかるが、思考停止はいけない。
ソムリエの田崎真也氏は、食の分野での手段と目的の取り違えについて著者『言葉にして伝える技術』(祥伝社新書 2010年)で小気味好くぶった切っている。
「手作りだから、おいしい」「自家製だから、おいしい」「厳選した素材を使っているから、おいしい」「秘伝のタレを使っているので、おいしい」「長い時間をかけているから、おいしい」なんていうのは、全部プロセスの話で、「おいしい」という結果と自動的につながるわけではないのだ、と(p.27-61)。
田崎氏の主張は、そうしたありモノの言葉と先入観にとらわれずに、味と向き合い、記憶に留めたりほかの人に伝えるために細心の注意を払って言語化すべしというところだが、手段と目的の取り違えの例としても読めるだろう。
ではなぜ、そうした手段と目的の取り違えが頻繁に起こるのだろうか。
一つには、自分の専門分野以外のことというのは、目的や成果の評価がしづらいということもあるだろう。
分野ごとの成果基準をすべて認識するのは実質的に無理だが、人間がやっている以上、「一生懸命」とか「時間をかけて」とか「命懸けで」とかのプロセスの部分はある程度共通する。
また、手段と目的の取り違えは、モノゴトがもっとシンプルだった時代のなごりかもしれない。
一つの目的を達成するために取りうる手段が一つしかない時代なら、投入される時間や手間などが多ければ得られる成果も多くなるはずであった。
投入されるものや犠牲になるものと成果は「等価交換」、犠牲が多いほど得られるものも多いはずという、天の怒りを鎮めるための「人柱」的発想である。
ではなぜ、そうしたシンプルな時代からはるかに時間が経った現代でも、我々は手段と目的の取り違えに無頓着なのだろうか。文明の進歩は、個々人の判断能力を向上させはしないのだろうか。
考えても考えても、ますます謎は深まるばかりだ。
我々は、その謎を解き明かすべく、ジャングルの奥地へと向かった(ウソですごめんなさい)。