『なりたい自分』のための言語学習から『ありたい自分』のための言語学習へ~人生の各ステージでお金と時間をどこにつっこむか問題

〈何事にせよ、ひとつのことに精通するには、一生の大半という長い年月が必要とされることは誰もが知っています。ところがこれがあまりにもわかりきったこのなので、かえってのん気な気持ちになってしまい、時間を節約すべき時に浪費し、時間を無駄にしないように絶えず注意しなければならないところで、ついうっかりしてしまうのです。〉(P.G.ハマトン『ハマトンの知的生活』三笠書房 p.200)
人生後半戦において、どこに時間を突っ込むべきかを考えている。
マネジメントで大事なこと(の一つは)「やらないこと」を決めることだとドラッカーも言う。
マルチタスクをスイスイ行う人間が賞賛される時代だが、人生後半戦マネジメントにおいてもこれは真理だ。
19世紀イギリスの随筆家ハマトンも、「やらないこと」を決める大事さを説いた。
知的生活を志す若者に向けた本『知的生活』では、時間節約のためには自分の限界を知ることも大切だと述べている。
ラテン語やギリシア語の習得をしようとする若者にも、そうした言語の習得には一生の大半が必要で、しかも完璧になれるわけでもないから程々に、とたしなめている。
実際、言語の習得には膨大な時間と労力を要する。そして膨大な時間と労力を投入したとて、ネイティブと同じような完璧な言葉を身につけられるとは限らない。さらに言えば、ネイティブだからといって完璧にその言葉をマスターできるわけでもない。日本人だからといって全員が自動的に日本語を完璧にマスターできているわけではないのはご存じの通りだ。
ぼく自身も、若い頃は何ヶ国語も自在に操るような、たとえばマルコ・ポーロや井筒俊彦のような人物に憧れたが、そうした憧憬はとうの昔に埋葬してしまった。
では、人生後半戦において言語を学ぶことはすっぱり諦めてしまったほうがよいのだろうか?
その答えは、否である。
ただし、言語の学習の位置づけが、人生前半戦と異なってくる。
人生前半戦ではしゃにむに『なりない自分』を目指して来た人も、後半戦では『ありたい自分』のために時間を割いてもよいのではないか、と書いた。
それと同じように、言語の学習も『なりたい自分』のためではなく『ありたい自分』のために(も)行う。
楽器を弾く者、文章を書く者の多くはプロになるわけでもなれるわけでもない。Just for fun、ただ楽しいから人は楽器を弾き、文章を書く。
それと同じように、ただ楽しいから言語を学ぶ、という位置づけに変わっていくのではないか。
専門的には言語と思考の関係性は諸説あるが、実感としては新しい言葉を学ぶと新しい切り口で世界を見ることができ、新しい思考プロセスで考えることができるようになる。なによりも、知らない言葉を知るって楽しいじゃないですか(人による)。
外国語を学んでいる自分、というありかたが心地よいなら、人生後半戦においても言語は学び続けるとよい。
人生前半戦の『なりたい自分』のための言語学習から『ありたい自分』のための言語学習へスライドさせていくのも、一つの戦略といえるだろう。