人生後半戦について啓発本に書いてあることは2つしかない。

不惑を超えて、まだ惑う。
40歳手前までは、いわゆる人生指南本は遠ざけてきた。染まるのが嫌だったからだ。
それから10年経って、「車輪の再発明」も不要かと時々指南本を手に取ってみる。
当然ながら、人生のステージによって指針は異なる。
特に興味のあるのが、時間の使い方だ。人間の、究極の有限資源は時間と気力だからだ。
 
実は、50歳以降についての人生指南本では、突き詰めると時間の使い方について2つのことしか言っていない。
「あり余る時間をどう過ごすか」と「限りある時間をどう使うか」である。
二律背反するその2つが、50歳以降についての人生指南本の時間に関するテーマである。
あり余る時間をどう過ごすかというテーマは、場合によっては今後時代遅れのものとなるかもしれない。多くの人にとって、ハッピーリタイアメントは過去のものになってしまった。
人生100年時代とも言われ、おそらく多くの人がなんらかの形で仕事をし続けることになる時代だ。しかしそうは言ってもやはりプライベートの時間は、若い時よりヒマになる。重要度は下がるものの、「あり余る時間をどう過ごすか」は今後も大きなテーマだろう。
大前研一氏は以前、「趣味は最低20個持て」と語っていた。インドアで10個、アウトドアで10個だったはずだ。
別の場所では8個と言っていて、これは「室内で個人」の趣味を2つ、「室内でグループ」の趣味を2つ、「屋外で個人」を2つ、「屋外でグループ」を2つだという。

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人生後半戦のテーマは「あり余る時間をどう過ごすか」と「限りある時間をどう使うか」だ。いくつか人生指南本を読んで、つきつめると書いてあるのはその2つだった。
「あり余る時間をどう過ごすか」に関し、多くの本では「趣味を持て」とか「自分で時間の使い方を決めろ」みたいなことをさまざまな書き方で書いてある。
 
ちょっと面白かったのは齋藤孝氏の『最強の人生時間術』(祥伝社新書 2011年)だ。
 晩年のパートナーとして犬を飼え、というのだ(p.191-194)。たとえ既婚者であってもどうせパートナーか自分のどちらかが先に死んでしまう。だから、犬を飼えば話相手になるというのだ。
「人生には、一人の友と一冊の本とそれから一匹の犬がいればいい」(詠み人知らず)というくらいで、確かにそれは魅力的に思える。
 
齋藤氏は「歳を取って一人でしゃべっていると変な人と思われるが、犬にしゃべっていればセーフ」、「犬がいいのは、犬がものすごく暇だから」と続ける。
 
さらに齋藤氏は書く。
〈人は自分よりテンポのゆっくりした時間性の持ち主と一緒にいると、落ち着きを感じます。そうした時間性という点からいうと、人間というのはかなりテンポの速い生き物です。〉(p.193)
そうした時間性という観点からも、晩年を犬と過ごすのはおすすめだそうだ。
さらに時間テンポの遅いパートナーとして齋藤氏は植物を挙げている。
最晩年に犬を飼うと、犬より飼い主が先に死んでしまったらどうしよう問題が持ち上がるが、その場合植物なら犬よりは罪が軽そうだ。
 
齋藤氏の面白いのはここからで、晩年のパートナー候補は犬、植物と来て最後に行き着くのは「石」だ、という。
確かに時間テンポのもっともゆっくりとした存在として、石はトップクラスだろう。
土地の広い地域では、庭に何十万だか何百万かで買った石や岩を飾ってある家があるが、あれはそういう意味だったのか。
庭で一人でぶつぶつ言ってたらヤバそうな人だが、庭石に語りかけていたらセーフな気はする。

人生後半戦をどう過ごすか。
多くの本が「趣味を充実」みたいなことを手を変え品を変え勧めてくるが、五木寛之氏のお勧めはズバリ「家出」(本当)。
『林住期』(幻冬社文庫 平成20年)で、「五十歳からの家出のすすめ」にページを割いている(p.80-85)。
 
五木氏はこう書く。
 〈「家出」とは、ある意味で「出家」のことでもある。「出家」とは、一般には俗世間を捨てて、宗教的な求道の生活に入ることをいう。べつに坊さんにならなくとも、「出家」は成りたつのだ。〉(p.81)
さまざまなものを捨てて、自己や万物を見つめ直す。そこからしか見えてこないものがあるのではないか、と五木氏は説く。
〈人は孤独のなかに自己をみつめることによって、天地万物の関係性を知ることができるのかもしれない。仏教でいう縁起とは、すべてのものは孤立して存在してはいないということだ。〉(p.84)
 
もちろん皆が皆、「家出」や「出家」が出来るわけではない。
五木氏もそこは承知しているから、〈これはもちろん、私の空想、というより妄想である。〉と断りを入れている(p.84)。
その上で、晩年「家出」をして漂泊の末に旅先で亡くなったトルストイや、親鸞と離れて越後に移り住んだ恵信尼のことを、憧憬を込めて書いている。
 
五木氏は言及していないが、晩年の「家出」といえば病中に「旅に病んで 夢は枯野をかけ廻る」と読んだ松尾芭蕉翁も頭によぎる。
蛇足だがこの句が辞世の句かどうかは意見が分かれるそうだ。芭蕉翁自身は、一句一句を辞世の気分で詠むべきと考えていたという(※)。
 
人生後半戦をどう送るか、まとめて考え合わせてみると結論が見えてくる。
すなわち理想は、石と語らい漂泊の旅に明け暮れるというものだ。
石と語らいながら漂泊の旅を続けていれば、そのうち飛行石を持った少年少女と巡り会えそうでもあり、とても楽しみである。
バルス。

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