歳なりに歳をとる(3)理想のおじさんは46歳から。

徒然なるままに「理想のおじさん」について考えている。
 
浪人生のころ、電車からいつも眺める風景があった。
平日の昼間、都心の駅のすぐ目の前で、釣り人たちが釣り糸を垂らしている。
まわりのオフィスを忙しげに人々が行き交う。
釣り人たちは動かない。
時折、水面が揺れる。
ぼくは遅刻して、予備校に向かう。
電車は走る。
 
あの釣り堀の釣り人たちはいったい何者なのか。
ずっとナゾだったが、やっとナゾが解けた。
平日の昼間、すっぽりと現実から抜け出して釣り糸を垂れていたあの釣り人たちこそが、「おじさん」だったのだ。
 
〈鴨長明は五十歳を過ぎて京の街を離れ、自然のなかに独り住んだが、彼がそこに求めたのは俗世間の掟にしばられない精神の自由であった。〉(五木寛之『林住期』幻冬舎文庫 平成20年 p.21)
 
上掲書によれば、古代インドでは人生を四つの時期に分けたという。
心身を鍛えて学ぶ「学生期(がくしょうき)」、これは「青春」である。
働き、家庭を作る「家住期(かじゅうき)」、これは「朱夏」だ。
そして仕事や家庭が一段落したら、世俗を離れ林に住まう「林住期(りんじゅうき)」、「白秋」がやってくる。
最後はその住まいすら離れ永遠の旅立ちへと向かう「遊行期(ゆぎょうき)」、「玄冬」の時期がやってくる。
五木氏は、人生後半戦の「林住期」こそ人生のゴールデンタイムではないかと問いかけた。
 
現実社会のしがらみから抜け出して、平日昼間に都会の真ん中(やや東寄り)で釣り糸を垂らしていたあの「おじさん」たちこそは、まさに人生の林住期を謳歌していたとは言えないだろうか。
少なくとも浪人生のぼくにとっては、あの光景はいわば「ファンタジー」に見えた。
電車の窓からあの光景を見てから30年、ぼくはやっとその釣り堀を訪れることが出来た。
釣果は無かったが、ひととき「ファンタジー」の住人になれただけで大満足である。
 
そう、少年にとって「おじさん」は「ファンタジー」なのだ。
 
「ファンタジー」とは何か。
ル=グウィンがこんなことを書いている。
 
〈そのあり方でなくてもいいーそれがファンタジーの主張することだ。「何でもいい」とは言わない。それは無責任だ。2たす1が5だの47だのになったら、物語の帳尻が合わなくなる。ファンタジーは「あるのは無だ」とは言わない。それはニヒリズムだ。そしてファンタジーは「こういうふうであるべきだ」とも言わない。それはユートピア的理想主義で、ファンタジーとは別の企てだ。ファンタジーは改善を目指すものではない。〉(アーシュラ・K・ル=グウィン『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』河出書房新社 2020年 p.112)
 
慌てて書き足すと、ル=グウィンの上掲パートはあくまで「ファンタジー」そのものについて述べたもので、「おじさん」について述べたものではない。「少年にとっておじさんはファンタジー」というのはぼくが勝手に言っているだけだ。
いわばぼくの思いつきだが、それでもこの思いつきは魅力的に見える。
 
親の規範や友人達からの束縛にガチガチに縛られた少年に対し、「おじさん」は「そのあり方でなくてもいい」と告げる。
ファンタジー世界だからといって理由も無しに2たす1が5だの47だのにならないように、「おじさん」世界にも「おじさん」世界なりのスジの通し方はある。
だが閉塞感にアップアップしている少年に対して、「おじさん」は「そのあり方でなくてもいい」ということを自ら示す。平日の昼間に都心の釣り堀で釣り糸を垂れてみせることで、少年の世界に風穴を開けるのだ。
 
そうした理想の「おじさん」になるためには余力と諦観とセンスが要求される。
余力が無ければ余計なことは出来ないし、「よくも悪くも人生こんなもんだろ」という諦観が肩の力を抜く。風穴開けた先が今より悪い世界だったら絶望的だから、どうしたってセンスは必要だ。
 
「歳なりに歳をとる」ことは簡単ではないけれど、ぼくなりに理想の「おじさん」像は見えてきた。
では、人々はいつから「おじさん」になるのだろう?
五木寛之氏は、人生のゴールデンタイム「林住期」を50歳から75歳までと規定していた。「林住期」に入る数年前から準備しないといけないから、理想の「おじさん」は46歳から始まると言えよう。
なぜ46歳かって?
おぼろげながら浮かんできたんです、「46」という数字が。
(続く)

 

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