あらかじめ失われた「ふるさと」について。

浅田次郎氏に『母の待つ里』という作品がある。これ以上は書けない。
マエストロの作品構成力、人物造形、物語の運びが冴える逸品であり、45歳以上の都市生活者および都市近郊生活者なら刺さると思うのでぜひ。お読みいただければ今回のテーマと隣接する作品だとわかっていただけるはずだ。
 
河合雅司氏と牧野知弘氏の『2030年の東京』
(祥伝社)の裏テーマは、もしかしたら「ふるさと」の喪失かもしれない。正確には「ふるさとモデル」の喪失といったところか。
同書によれば、〈(略)戦後、地方から絶えず人を入れ込んできた東京も、住民は今や第3世代(略)〉(p.73)。祖父祖母の代に地方から出てきて、父母の代には祖父母のふるさとと人的・心情的につながりがあったが、自分たち(第3世代。僕自身は自分のことを第2世代と認識している)の代にはつながりはかなりの部分ヴァーチャルなものとなっている。
彼らは(というより僕らは)、代々東京生まれ東京育ちの人たちのように東京を「ふるさと」と思うことも少ない。ルーツの地と東京の価値観の二つを自己の内部で葛藤させつつ共存させた東京移住第1世代、第2世代のようにコスモポリタンでもない。東京圏のマンションで生まれ育ち、人生のステージのそれぞれであちこちに転居した東京第3世代は悪くいえば根無し草であり、よくいえば〈「アドレスフリー」〉であり〈「ノマド」〉である(〈〉内は前掲書p.74)。
 
生粋の東京人もいるが、東京圏(東京+その近郊のベッドタウン育ち)移住第3世代も一定数いる。その第3世代は、「あらかじめふるさとを失った世代」である。
「地方から東京などの大都市圏に進学、就職で出てきて、盆暮正月には里帰りし、郷里に残った親族や同級生と旧交を温める。故郷に錦を飾る気で頑張り、退職後は郷里に帰って畑仕事しながら余生を過ごす」という「ふるさとモデル」は成り立たない、あるいは成り立たなくなりつつある、というのが『2030年の東京』の裏テーマかもしれない。
本題からそれるが、第4世代以降はいわゆる社会の階層固定化や産業構造の変化により物理的に人を集める必要性が減ることなどと相まって、近年50年に比べ転居は減り、東京圏各地に根を張り、東京を「ふるさと」と認識していくのだろう。
 
「ふるさとモデル」では弱い紐帯として地縁や血縁が機能すると想定された(実際は人による。中島みゆき『ファイト!』みたいな地縁もあるだろう)。
だが、「ふるさとモデル」が喪失された「2030年の東京」の世界では、セイフティネットとしての地縁、血縁の機能は相当に失われている。
 
だからこそ何らかの方法で弱い紐帯を作る必要がある。そのための仕組みとしてフランスの「隣人祭り」みたいなことが広く行われていくのか、あるいは他の方法が出てくるのかは興味深い。
ぼくもその一つとして、先日述べた地域イベントみたいなことをやってみたいと思う。
とりあえず今やってみたいのはワールドカフェスタイルの「ネタバレを気にせず『母を待つ里』を語り合うDay」である。