お金の持つ二面性~家事代行から市場主義を考える2(再掲)

結論から言うと、『主義<イズム>とハサミは使いよう』である。
それだけではなんのことかわからないので、少々長くなるがお付き合いください。

共働き家庭でお金を払って家事代行を頼むという提案を妻がしたときに夫の抵抗にあう、という現象の背景を先日考えた。
共働き家庭において、時間もないしお互い疲れているから家事代行業者を頼みましょうと妻が提案をすると夫が「なんかいやだ」と反対する。


妻と夫の意見の対立の根底には、妻側は家事を大変だけど誰でも代替可能であるコモディティ業務として見なし、市場主義のもと業者の労働力を買ってかわりにやってもらうのもやむを得ないものと捉えているのに対して、夫側は家庭を市場主義の聖域、家事を市場主義におかされたくないなにかしら神聖な行為として見ているという構造があるのではないだろうか。
市場主義は万能ではなく、市場主義がふさわしい場所とそうでない場所があるが、その線引きが妻と夫で違うことが意見の相違を生むのではないかと考えたのだ。

さて、ここで面白い現象が起きる。
お金を払って家事代行業者を頼むのがダメなら、同額のお金を払ってリタイア後の親戚に家事をしてもらうのはどうか、と妻がきくと、多くの夫はしぶしぶながらも「それならいいけど…」と譲歩する。
同じ額のお金を同じようにひとに渡して家事をお願いするのに、どうして夫の反応は違うのだろうか。

家事代行業者に渡すお金は「賃金」であるのに対し、親戚に渡すお金は「謝礼」であるからである。
1時間単純労働をしてその対価として1000円を渡す場合、これは「賃金」だ。
賃金は需要と供給のバランスによって額が決まる。
市場主義の要であるのが賃金だ。

それに対し、例えば高名な学者をお呼びして1時間講演してもらい、そのお礼に5000円包んだ場合、これは賃金ではなく謝礼だ。
謝礼は、本来需要と供給のバランスでは値段のつけられないものに対して感謝の気持ちをあえて形で表したもので、非市場主義的なものである。
(この部分、佐藤優著『人たらしの流儀』PHP研究所2011年p110〜112参考)
家事を親戚にお願いしてお金を渡す状況では、そのお金は賃金ではなく謝礼であり、夫の意識下において、神聖な行為を市場主義で汚すことにはならないからこそ受け入れることが出来るのではないか。

お金はお金、という態度で賃金と謝礼的なものを混同すると痛い目にあう。
数年前、大手流通チェーンが葬儀の際に僧侶へ渡すお金の「価格表」を発表して物議をかもした。
それに対して強い反発を感じる僧侶は多かったが、あれはなにも「価格破壊」が行われて自分たちが困るから反発したわけではなく、本来値段のつけられないはずの宗教行為への感謝をあえて金銭で表した謝礼が、需要と供給のバランスで決まる賃金のように扱われたから反発したのであろう。

賃金と謝礼はどう違うか。
あるいは市場主義の特性はなにか。

賃金、売買は等価交換であり、現場清算である。
なんらかのモノや行為に対し、それと同等の価値を持つお金を払うことでそれを手にいれる。
お金を払う人が誰かは無関係に、売る側と買う側が今までどんなつきあいでこれからどんな接し方をするかも問われない。
コンビニで買い物をしてお金を払えば子供だろうが大人だろうが店員は「ありがとうございました」と同じようにものを売ってくれるし言ってくれる。
純粋な市場主義には顔がない。
売買が成立すればそれで関係は一回清算され、貸し借りなしうらみっこなし、しがらみも絆も断ち切ることができる。

それに対し、謝礼やプレゼント、贈り物としてのお金は真逆だ。
謝礼やプレゼント、贈り物はむしろしがらみや絆を強化するために使われる。
贈り物やプレゼントは古来より互いの関係性を強化するために行われてきた(マルセル・モース『贈与論』ちくま学芸文庫)。
互いに信頼しあい、これからもおつきあいをしたいときに謝礼や贈り物としてのお金がやりとりされる。
同じお金の行き来でも、売買行為とプレゼント行為ではベクトルが逆なのだ。

関係性を強化するお金の行き来の例として、一見(いちげん)さんお断りの店を想定することができる。
お金さえ払えば売買が成立する市場主義行為としてではなく、もてなす側ともてなされる側に関係性がもとからあり、これからも続くことが想定される場合のみ饗応と謝礼の贈りあいが成立するのが一見さんお断りの店なのだろう。
葬儀での謝礼や一見さんお断りの店での支払いは、とむらいの行為や食事に対する対価を払って関係性をいったん清算することではなく、関係性を強化し絆をより深める行為なのではないだろうか。

お金を出す時に「すみません」と言い、受け取る側も「すみません」と言う。
「すまない」と言う言葉の語源は、お礼や謝罪を終えていないので心が「澄まない」のではなく、お礼や謝罪がまだ十分「済まない」ということではないかと土居健郎は述べている(『甘えの構造』弘文堂 昭和46年 p.26-29)。
お金を払い、お金を受け取るたびに、私たちの関係性はお金のやりとりで清算されるわけではない、これで「済みません」と言っているわけだ。
「これで済みません」ってのはちょっと怖いけど。

賃金と謝礼の違いについて考えた。
誤解を避けるために言うと、市場主義を全面否定したいわけでは全くない。
等価交換、一回清算の市場主義が優れている部分は多い。
ドライな市場主義があるからこそ、取引相手と今まで交渉がなかったものでも新規参入ができるわけで、世界中が一見さんお断りの飲食店ばかりだったらみんなが途方に暮れる。
縁故やしがらみでガチガチの古い共同体主義は、昔からその内部にいる者にとっては生ぬるく心地よいが、腐敗と利権を生む。
そのインナーサークルに入り込もうとする新参者にどんな悲劇が起こるかを知りたければバルザックの『ゴリオ爺さん』をお勧めする。

アメリカが商取引に縁故主義共同体主義を全面採用していたら世界中から人を集めることはできなかっただろうし、お金さえ払えばどんな人種どんな宗教の相手とでもがっちり取引し、きっちり一回ごとに清算をすることで問題があればもっとよいパートナーに次から次へと切り替えていく市場主義で商行為を行ったからこそ自由主義諸国はここまで発展したのだ。

ただ、共同体主義縁故主義が万能でないように市場主義も万能でない。
フォークでスープは飲めないし、スプーンでステーキは切れない。
それ一つでなんでもこなせるという道具がないように、それ一つでなんでもうまく行く主義や考え方があるわけではない。
使うべきイズムを使うべきときに使ってこそ、ぼくらは人生という名のごちそうをたいらげることができるのだ。

家事代行の話からふらふらとだいぶ遠くまで来た。
そろそろ現実に戻り、シンクにたまった洗い物を片付けることにしたいと思う。
(FB2015年2月8日を再掲)