年末から、話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平)をあえて批判的に読むという試みをやっている。
ルールは3つ。
ルール1.論と論者は分けて論じる。
ルール2.イデオロギーを盲目的に信奉したり拒絶したりすることは避ける。
ルール3.全ての「筋の通った」論を歓迎する。
このルールに基づき年末までに論じたのは二つ。
③として指摘したいのは、「資本主義社会のレリジエンス」である。
レリジエンスはrelisienceと綴り、「弾力」「回復力」などの意味だ。
いやあ一回つかってみたかったんすよレリジエンスって言葉。日常生活じゃあんまりつかう機会もないし。
で、資本主義社会というのはなかなかにしなやかでしたたかで、オルタナティブやアンチテーゼというものを己の生存のためにどんどん取り込んでいくんですね。
身近な例でいえば70〜80年代に勃興したhip hop文化も、おそらく「beat the system、体制に打撃を与えろ」というのがテーマの一つだったと思うが、今多くの部分が資本主義社会の一部となっている。
これは個々のアーティストがセル・アウトした(だけ)なのではなく、資本主義社会の柔軟性、レリジエンスを表しているのだと思う。なにしろ2024年のパリ五輪ではブレイクダンスが種目として取り入れられたくらいだ。
概念としての資本主義と、社会体制である資本主義社会をごっちゃにしている自覚を持ちつつ論を進める。
前世紀、20世紀末に「老化するお金」「腐るお金」論が流行った。
このときは資本主義の問題点として、貨幣(価値)と実体経済の乖離が言われた。
貨幣というのは腐らないから、これを持ち続けても減らない。むしろお金を運用していけば、利子が利子を産んでどんどん増えてゆく。
これに対し1916年にシルビオ・ゲゼルが提唱した「減価する貨幣」を実現させれば、永遠に溜め込み利子が利子を呼ぶようなお金のあり方が解消される、というのが「老化するお金」「腐るお金」論の骨子だ(と思う)。
このシルビオ・ゲゼルの「減価する貨幣」のアイディアは、1931年にドイツ東部のシュバーネンキルヘンで補完通貨「ヴェール」として実現し効果を挙げたという(この部分、河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言』NHK出版より)。
現在ドイツで補完通貨「ヴェール」は使われていない。
しかしながら、「利子がつかないから誰も溜め込まない」「使わないと価値が下がるからみんなどんどん使う」というのが「腐るお金」の本質だとすると、われわれはすでにそれを手にしている。
すなわち、各種の地域振興券や、GoToイートの食事券などはまさにそうした類のものではないか。
このように、資本主義社会というのはオルタナティブやアンチテーゼから貪欲に良いものを取り入れて自らの延命を計ろうとする性質がある。その結果、社会はヌエやキメラのごとき変容を続けるのだが、それはまた別の話。
もっとも、自らの延命のために敵対するものを取り入れるのは鄧小平もやって成功しているから、この部分は「資本主義社会のレジリエンス」ではなく「体制のレリジエンス」と呼ぶべきかもしれない。