昨年末から、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』をあえて批判的に読むということをやっている。医療リソースとラーメン屋について考えることに忙しかったが、きちんと一区切りつけておきたい。
『人新世の「資本論」』の課題設定の主眼は地球温暖化である。地球温暖化を食い止めるには脱成長が必要だが、資本主義体制では本質的に成長を要求される。だから地球温暖化を食い止めるには資本主義ではダメで、それに代わるものとして晩期マルクスが研究したような、「コモン」を重視したコミュニズムが望ましい。
コミュニズムと聞くと旧ソ連のような困窮と不自由を連想するだろうがそうではない。豊かさが十分に社会に行き渡らないのは富の分配の問題で、そこをクリアしたのが「潤沢なコミュニズム」なのだ。
すでに世界中でその「潤沢なコミュニズム」の萌芽が見られる。世界中の人々の3.5%が意識を変えれば世界が変わる。さあ、読者のあなたも、その3.5%の仲間入りをしようじゃないか。
上掲書の骨子はこのようなものだ。
これに対し、あえての建設的批判として、
①脱成長・定常社会の中で我々は幸せに生きられるのだろうか。映画『楢山節考』の中の人々は幸せだろうか。あるいはGDPが数十年横ばいで、しかも利害関係や既得権益構造が固定された、まさに脱成長・定常社会である日本の地方都市の、特に若い年代の人々は幸せだろうか。
②「潤沢なコミュニズム」が実現可能ならば、なぜいまだにそれは国単位や社会単位で実現していないのか。人間の本質にとって「潤沢なコミュニズム」は向かないアイディアではないか。
③資本主義体制、あるいは社会体制には「レジリエンス(回復力、弾力性)」があり、存続の危機になるとアンチテーゼやオルタナティブな体制、思想から貪欲にアイディアを吸収し取り入れていく性質がある。
という3点を挙げた。③の続きをやらなければならない。
本邦をはじめとする資本主義国であっても、レッセ・フェールを徹頭徹尾貫いている国はない。濃淡の差は大きいが、資本主義の穴を(ある程度)補うべく、なんらかの社会保障制度をほぼ全ての国が持つ。
医療保険や年金などの社会保障制度は、国民の赤化を防ぐためにビスマルクが国家体制に組み込んだ。これもまた、資本主義体制、あるいは社会体制のレジリエンスの一例である。
あるいは日本の厚生労働省のルーツの一つは内務省で、かつて国民皆兵制を敷こうとして徴兵検査をしたら成人男子に梅毒罹患者があまりに多くてこれでは富国強兵どころではない、国民の健康増進を図る役所が必要だ、という動きがあったとい う(新村拓『日本医療史』吉川弘文館。良書)。これもまた体制のレジリエンスの一例として挙げたい。
要は思想や体制というのは、己の存続を懸けて常にメタモルフォーゼし得るもので、そう簡単に「資本主義の終焉」は来ないだろうなあというのが素直な感想だ。
極めて政治的なものだが、「炭素税」もまた資本主義体制のレジリエンスの一例であろう。