斎藤幸平『人新世の「資本論」』をあえて批判的に読む(2)-「潤沢なコミュニズム」が実現可能ならば、なぜまだ実現していないのか。

いま話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著 集英社新書)をあえて批判的に読むという試みをしている。
なにもクリスマスにそんな無粋なことをしなくてもよいとは思うが、なにしろ宗教は阿片だからこれでいいのだ。よーしパパ、革命的情熱を持って論じちゃうぞー。12月21日の続きです。

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同書では、地球温暖化を食い止めるには脱成長して「潤沢なコミュニズム」を実現するしかない、そしてその萌芽は世界各地ですでに現れている、と説く。
しかしながらすでにここにいくつかの疑問も抱かざるを得ない。

人間の活動が温暖化に影響を与えているという部分は受け入れるとしてもその割合に関してはいくつか意見があるだろうし、脱成長することによるデメリットが少なからずあることはビョルン・ロンボルグ側の立場をとりたい。
そこらへんはイデオロギー論争の泥沼にはまる可能性が高いから本職にまかせておく。

ぼくが引っかかるのは「潤沢なコミュニズム」が実現可能なら、なぜ今までそれが社会や国の単位で実現していないのか、ということだ。

人間は快を求め不快を避ける生き物だ。
ミクロで見れば修行僧のような人もいるが、マクロで見れば、不快な環境から人は逃げ出し、快適な環境に人は吸い寄せられていく。
「潤沢なコミュニズム」の萌芽の例として同書ではデトロイト(p.293など)やバルセロナ(p.328など)やチアパス(p.338など)を挙げているが、少なくともチアパスに関しては移住者が殺到しているという話は聞かない。

また、揚げ足取りになるのは承知だが、「潤沢なコミュニズム」という語も警戒が必要である。
「潤沢な」という言葉が物質的なものを指すなら、今より「潤沢な」社会を目指すならば今より成長して社会全体の富の総和を増やすか、1%の「持ちすぎている者」から「分捕って」99%の「持たざる者」に分配しなければならない。
前者なら脱成長と「潤沢なコミュニズム」は矛盾するし、後者ならばその部分は巧みに読者の目から隠されている。

端的に言って、この部分の建設的批判としては「潤沢なコミュニズムに基づく社会が実現可能なら、人類史の中でとっくの昔に実現されているのではないか」ということだ。
そしてまた、「潤沢なコミュニズム」を実現可能だと論ずるなら、「環境に優しいキャピタリズム」を実現可能だと論ずることもできるわけだ。

 

何を論ずるかは自由だし全てのアイディアは検討されるべきだ。
しかしながら同時に、そうしたアイディアが実現可能か、それぞれのアイディアが人間の本性にフィットしているのかもまた論じられなければならない。
それでこそ人類の生存可能性も高まるというものだ。
(続く)

 

3分診療時代の長生きできる 受診のコツ45

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  • 作者:高橋 宏和
  • 発売日: 2016/02/20
  • メディア: Kindle版