斎藤幸平『人新世の「資本論」』をあえて批判的に読む(1)ー脱成長・定常社会で若者は幸せに暮らせるだろうか

一生に1回は観るべきだが、2回観るのはしんどいという映画がある。『楢山節考』もその一つだ。Kさん、勧めていただきありがとうございました。
 
話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平 集英社新書)を読んでから、『楢山節考』が頭の中でリフレインされてしんどい。頭を整理させるために書く。
 
以下のルールに従って論を進めたい。
 
ルール1. 論と論者は分けて論じる。論者自身を批判するのではなく論を批判することを心がける。
ルール2.イデオロギーを盲目的に信奉したり拒絶したりすることは避ける。
ルール3.全ての「筋の通った」論を歓迎する。「筋の通った」オルタナティブやアンチテーゼは歓迎される。「筋の通った」オルタナティブやアンチテーゼは、我らを強くしてくれる。「我ら」って誰だ。
 
さて話題の書『人新世の「資本論」』だが、あえて批判的に読んでみる。
主な感想・反論は以下のとおりだ。
 
①脱成長・定常社会で我らは幸せに生きられるか。だから「我ら」って誰だ。
②「潤沢なコミュニズム」が可能なら、なぜまだその「潤沢なコミュニズム」は実現していないのか。
③資本主義社会のレリジエンス
おそらく反論に通底するのは、『人新世の「資本論」』が、現実社会の「人間」の行動様式や思考や指向というものから目を逸らしているのではないか、ということだと思う。
 
『人新世の「資本論」』が論じているのはマルクスだが、マルクスにはこんな小咄が残っている。
エンゲルスがマルクスに「労働者が働いている工場の労働環境を見学に行こう」と誘ったときにマルクスはこう答えたという。「俺は大英図書館で本読むのに忙しいから行かない」(阿川弘之氏の本で読んだ。実話かどうかは不明)。
 
一つ一つ論を進めたい。

斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を読んでずっとモヤモヤしているので、頭をスッキリさせるために書いてしまう。
 
同書では、地球温暖化をこれ以上進めないためには我々は脱成長しなければならず、そのために晩期マルクスにならい「潤沢なコミュニズム」に基づく定常社会を形づくらなければならないと説く。書店に行けばわかるが、現在同書は着実に支持を広げ続けている。
 
まず第一に検討しなければならないのは脱成長のメリットとデメリットである。
強硬な脱成長路線により特に若者層が失うものが少なくないことは、すでにデンマークの政治学者ビョルン・ロンボルグらによって繰り返し指摘されている(ただし二次〜三次ソース)。
将来世代はグレタ・トゥーンベリを許さない? - himaginary’s diary (hatenablog.com)
 
その上で、やや感情を交え問題提起したいのは、脱成長・定常社会で我々は幸せに生きられるのだろうか、ということだ。
 
今村昌平の映画『楢山節考』では、東北の棄老伝説、いわゆる「姥捨山」に基づく「定常社会」が描かれている。
映画の中、山奥の共同体では食べる物が一定なため、人は70歳になると「楢山」に捨てられる。
ほかのメンバーから食べ物を盗む者は、家族ごと生きたまま埋められる。埋められた一家は、翌日から居なかったことにされる。
口減らしのため赤子は殺められる。
次男や三男に生まれた者は、生涯に渡り「奴」と蔑まれ、家庭を持つことは許されない。次男や三男が家庭を持ち「分家」すれば、一家の財産が細分化されて「定常」が崩れるからだ(*)。
 
一度でも『楢山節考』を観た者なら、「定常社会」の気が狂うほどの過酷さを痛感するだろうし、少なくとも「定常社会」がデメリットもあることを認めるのではないか。
 
『楢山節考』は映画の話だ、という反論もあるだろう。
『人新世の「資本論」』では、脱成長し、皆が話し合って決め、市民によるコミュニティが時に行政や政治に強く働きかけて行政や政治を動かしていくような定常社会になれば、我々は資本主義によって強いられている過剰な生産や消費から解き放たれ、そのぶんの時間を文化的活動に振り分けられて幸せになれると説く。
だがしかし、上記のような社会は一部ですでに到来している。I hate to say,それは日本の地方都市だ。
 
ご存知の通り、日本はここ数十年、GDPは横ばいの「定常」だ。
新参者が入りにくいムラ社会的な要素の色濃いコミュニティでは「話し合い」が尊重され、代々の既得権益のある人々が役所に強い影響力を持つ。
そんな、すでにある「定常社会」で我々は、特に若者は幸せに生きられているのだろうか。文化的活動は活発に行われているのだろうか。
 
「定常社会」が今ある利害関係を固定し、既得権益を持つ者が持ち続け、持たぬ者は持たぬまま固定されるならば、「定常社会」で希望を持つことは難しいように思える。
今日より明日、明日より明後日が今よりよくなる(かもしれない)というベクトルこそが希望だから、「定常社会」では希望を持ちにくいのではないだろうか。
 
利害関係ががっちり固定され、「終わらぬ日常」を生きねばならぬ持たざる者にとって、そうした既存の構造をぶっ壊してくれるのは「戦争」しかない。だから私は戦争を望むのだ、という『「丸山眞男」をひっぱたきたい-31歳、フリーター。希望は、戦争』を赤木智弘氏が世に問うたのが2007年であった。
あれから13年経って、脱成長・定常社会論が一定の支持を受けるのはどういうわけだろうか。
 
功成り名を遂げた年長者はなぜか清貧を若者に説きたがる。
赤木氏の論から13年経ち脱成長論が一定の支持を受けるのは、日本社会の中で大小様々なサイズの既得権者の割合が増えたからだろうか。
言い換えれば、日本社会の老化がより進んだからではないだろうか。
(続く)

(*)元の文章を書いた時点では知らなかったが、「おじろく・おばさ制度」というのもあったという。

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