健康保険と費用対効果ーディヌとビジャノとロジーニの話(R)

5月1日付の新潟日報web版によると、厚生労働省は薬の価格を決めるために「費用対効果」の視点を取り入れる方針とのこと。
http://www.niigata-nippo.co.jp/wor…/main/20150501178514.html

もちろん今までも効かない薬は認められてこなかったわけだが、これからは保険支払の一部で払われたお金に対しどれだけ効果があるのかという視点が取り入れられることになる。
単純化していうと、今までは1年間延命できる1錠1ドルの薬Aと、同じく1年間延命できる1錠10ドルの薬Bは、ともに1年の延命効果を持つために同じ程度に有用とされていた。
この「費用対効果(P4P=pay for performance)の視点が入ると、A錠は1ドル当たり1年の延命効果であり、B錠は1ドル当たり0.1年の延命効果なので、A錠のほうがB錠より10倍有用と評価されることになる。
特に値段が高いが延命効果が限定的といわれる分子標的薬(何とかマブという名前のもの)というジャンルの抗がん剤などがターゲットであろう。
限られた医療費をどう使うかは厚労省の腕の見せ所であり、実際に制度化まで持っていった現場の方々に敬意を表したい。

費用対効果の視点に皆が慣れてきたら、その次にやってくるのはQALY(Quality Adjusted Life Year 質調整生存年)の視点の導入なのでありましょう。
ただ単に延命できるだけではなく、その間の生活の質=Quality Of Lifeも大事だよね、という話で、完全な健康を1、死亡をゼロとして、ある治療や薬で上昇するQOLに生存年数を掛ける。
同じ一年の延命でも、QOLが変わらない1年よりもQOLが改善する1年の延命のほうが価値があり、1ドルあたりどれだけのQALY(改善QOL×生存年数)が得られるかで治療や薬の「費用対効果」を決めていく。
小児医療の分野にうまくそれが当てはまるのか、すなわち小児のQALY=1と超高齢者のQALY=1は社会にとって一緒の価値なのかとか小児、特に赤ん坊のQOLをきちんと評価できるのかという問題も起こるし、認知症の場合に本人が感じるQOLの改善は評価困難でも介護者(日本の場合は多くが家族だ)の負担が軽くなる場合にどうやって評価するのかなどなど運営面のむずかしさがあるのもQALYである。
まあそれでもみんなが納得する方法を編み出さないといけないので、厚労省の人も大変である。

あらためて医療をはじめとした社会保障は再分配の仕事なのだと感じる。
どうやって限られた資源を再分配していくのか。
どれくらいの再分配をどんなふうにやっていったらみんながそこそこ納得し、社会がよりよくなっていくのだろうか。

ディヌとビシャノとロジーニの問題を、アマルティア・センが書いている。
もともとの文(『自由と経済開発』日本経済新聞社 2000年 p.59-61)は自由と正義について考える章のマクラの話。
誰かに与える仕事が一人分だけある。
ディヌとビシャノとロジーニの三人の失業者のうち、誰か一人に与えなければならない。
ディヌは三人のうちで一番貧しい。
ビシャノは三人のうちで一番落ちこんでいて不幸だ。
ロジーニは病気で体が弱っていて、もし賃金を得られればその病気を治療して元気になれる可能性がある。
「みんなに等しく仕事を!」というのは理想論で、実際には与えられる仕事は限られているというのが現実世界と共通する悩みだ。
さていったい、誰に手を差し伸べるべきか。

一番貧しい人に手を差し伸べるべき、という考えの現実ヴァージョンがおそらく生活保護制度だ。
一番不幸な人を助けるべき、という考えを反映したものが難病見舞い金や特定の病気の治療費を公費で負担する制度であろう(その人が難病であれば金持ちだろうがその制度を利用できる)。
救いの手で病気がよくなり社会的に活躍できる人を優先すべきという考えが根底にあるのがQALYを使った費用対効果の視点である。たぶん。
ポイントは、使える資源に限りがある(無限だったらどんなにいいか!)、あちらを立てればこちらが立たずといったトレードオフの関係がある、病気や不幸というのは誰にも等しく訪れる可能性があるというところ。
気をつけろ 病気は誰にも やってくる。
自分が手を差し伸べられる側になる場合も往々にしてあるってことだ。

完全無欠の制度なんてそうそうない。
もしそんないい制度があったらとっくの昔に世界中で取り入れられているはずだ。
制度だけを見るのではなく、その根本の設計思想みたいなものをおぼろげながらも考える必要があるのだろうなどと秋の夜更けに考えてみたりする今日この頃です。
(FB2015年5月5日を再掲。一部改変)