社会参加をしている人がボケにくいのはなぜか~機械的知能と応用的知能(R)

日々を生きる喜びの一つに、腑に落ちる瞬間というものがある。
長年考えてきた疑問が何かのきっかけで「ああなるほど、そういうことか」と解決する。
その感覚はまさに腑に落ちるとしかいいようのないもので、腑に落ちる感覚は大変クセになる快感だ。
三宅乱丈はこの快感を「わかったぞエクスタシー」と名付けた(参考文献『ぶっせん』)。
この「わかったぞエクスタシー」を味わいたくて、日々ああでもないこうでもないと考えをこねくり回したりしているわけである。

 

昨日の朝、腑に落ちたきっかけは「人間の知能には機械的知能と応用的知能がある」という記述(ペーター・グルーズ編『老いの探究 マックス・プランク協会レポート』日本評論社 2009年 P.3)。
同書曰く、<機械的知能とは情報を集め、処理する能力で、応用的知能とは実践に応用する能力である。情報を収集し、処理するメカニズムは、年齢とともに早く衰えをみせるが、過去に獲得された知識は長く使えるし、ある意味でさらに高めることができる。>(同ページ)

長年の疑問というのはこういうことであった。
すなわち、「社会的活動をしている人のほうがボケにくい、認知症が進みにくいと言われ、実際に臨床の現場でもたしかにそんな気がするがそれはなぜか。
生物学的な現象として認知症を考えたときに、たとえばベータアミロイドやタウ蛋白の蓄積に対して、その人の社会的活動が物理的に影響するとは考え難い。
多少の社会的活動をしているからといって、細胞内シグナルレベルまで物理的な変化を及ぼし認知症の進行を遅らせるなんてことがそう簡単に起こるとは信じがたい。
社会的な活動に参加することが脳細胞の変性を遅らせるなんてことがありうるだろうか」。
テレビに出てくるエセ脳科学者のように『社会参加は脳を活性化させます!』なんて気楽に言えればどんなに楽か。
ちなみにぼくは、テレビや雑誌で脳科学者と自称している有名人の90%はインチキだと固く信じている。
まともな学者はきちんと心理学者とか生物学者とか精神科医神経内科医とか脳外科医とかってありふれた肩書で地道に研究活動するものだ。
それはさておき。

知能を機械的知能と応用的知能に分けて考えることで上記の疑問が腑に落ちる。
機械的知能は単純な記憶や計算、ハードウェアとしての脳の働きを示すものだ。
ハードウェアとしての脳は残念ながら加齢により劣化する。
走る速さや筋肉が加齢とともに衰えていくのと一緒である。
前述のベータアミロイドだのタウ蛋白だのの話はこの機械的知能に影響する。

しかし応用的知能は、機械的知能をどう社会の中で応用していくかという能力だ。
経験がものをいうこの部分はソフトウェアとしての側面がおそらく強い。
社会的活動をしていくことで、どんな場合にどういう機械的知能を使うべきかとかというトライ&エラーを繰り返し、ソフトウェアがバージョンアップされていく。
生物としてのハードェア的知能はゆっくりと落ちていったとしても、社会的知能をキープしバージョンアップしていくことで総体としての知能は下がらずに済むということではないだろうか。
あたかも老練なスポーツ選手が、落ちた体力を長年の経験で培った試合運びや駆け引きでカバーするがごとき現象である。

機械的知能と応用的知能は、「地頭」と「社会力」「世間智」と言い換えられるかもしれない。
「学校の勉強なんか世間では役に立たなかった」と豪語するたたき上げの経営者などは、記憶や計算といった機械的知能、地頭はそこそこでも、世の中で己や部下の機械的知能をどう活用するかという能力に秀でているということではないか。
そんなふうに言う経営者も、いざ部下を雇おうとしたときにはある程度の機械的知能を持つ者を採用する。
記憶力や計算力などがない部下だと仕事にならないからだ。

就職活動の面接もそう考えるとわかりやすい。
学歴やエントリーシートで機械的知能を推測し、面接で応用的知能を測ろうとしているということではないか。
面接官が応用的知能を知るために「学生時代なにしてましたか」と質問しているのに、「成績は常にトップクラスでした」と機械的知能についての話をしてもズレが生じてしまう。

『機械との競争』(エリック・ブリフニョン他日経BP社)に描かれたようにこれから人間の仕事の多くは機械に奪われていく。
その際に、知能を機械的知能と応用的知能を分けて考えていくことにヒントがあるはずだ。
機械的知能は機械にかなわないが、そうした機械的知能をどう人間社会で活かしていくかという応用的知能においては、人間社会を知っている人間に一日の長がある。今のところは。
このため、社会とのかかわりのウエイトが多い仕事のほうが機械には奪われにくいのではないだろうか。
医者が機械にとってかわられにくいと予想されるのは、医学的判断がワトソンより優れているからでは決してない。
クライアントである患者が人間であり、人間というインターフェースを通じて診察と治療を受けたいというニーズがあるからである。少なくとも今のところは。
(『機械との競争』は、最後まで人間の仕事として残るのは単純肉体労働と創造的仕事、と結論づけている。あれをあっちまで運んでそのあたりを整理してからちょっとした用事をテキトーに片づける、といった単純肉体労働は、機械にプログラミングしてやらせるより低賃金労働者にやってもらったほうがコストパフォーマンスがよい、というのが前者の理由だ)

昨日得られた「わかったぞエクスタシー」の余韻はまだ続いているが、とにもかくにも週末である。
みなさま、よい週末を。
(FB2015年8月23日を再掲)

 

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