<Cのことを思い出す。この男には、コーヒーを飲むのがただ一つの存在理由だった。ある日私が、このCに、感動に声をふるわせて仏教礼賛をやってのけたところ、彼はこんなふうに応じてきた。「ああ、涅槃ね、いいんじゃないの。でも、コーヒーぬきじゃごめんだぜ」(略)>(シオラン『告白と呪詛』紀伊国屋書店 1994年 p.80-81)
古来より人間はコーヒーを愛してきた。
身体と精神に影響を与えるという点ではコーヒーとアルコールは似ているが、与える変化の方向性はまったく違う。
寺田寅彦が酒とコーヒーについてこんなことを言っている。
<宗教は往々人を酩酊させ官能と理性を麻痺させる点で酒に似ている。そうして、コーヒーの効果は官能を鋭敏にし洞察と認識を透明にする点でいくらか哲学に似ているとも考えられる。酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである。前者は信仰的主観的であるが、後者は懐疑的客観的だからかもしれない。>(寺田寅彦『コーヒー哲学序説』 昭和8年。青空文庫)
シオランの友人Cに負けず劣らずぼくはコーヒーもまた愛してきた。
銘柄はなんでもいい。黒くて苦くて熱ければそれでいいのだ。真のコーヒー好きなら相手にしないような缶コーヒーもまた愛してきた。寒い日の早朝夜明け前、「100円玉で買える温かさ」を手に駅へ向かう孤独と喜びもまた、ぼくの人生を彩ってきたのだ。
しかしながらここ最近、少しばかり事情が変わってきた。
気が付けば健康のためなら命も惜しくないお年頃。
勝間和代氏のマネではないが、最近試みているのが減コーヒーなのだ。
きっかけは起床時のうっすらとした頭痛で、これがカフェインの離脱症状ではないかという仮説を立てたわけである。
仕事がえりの半ば習慣となっていた缶コーヒー購入をやめ、夕方以降のカフェイン摂取をなくしたら少なくとも眠りの質は上がったようだ。
夕方以降のカフェイン断ちをしてハタと困ったことがあった。自販機で買える飲み物がなくなったのだ。
まだ肌寒い時期、出来れば温かい飲み物が欲しい。だが、自販機で買える温かい飲み物のほとんどはコーヒー系。緑茶にもカフェインは入っているし、ではコーンスープはどうかと言えば今度はカロリーが気になる。なにしろこちらは健康のためなら命も惜しくない身なのだ。
つらつら考えてみると同じような人は一定数いるのではないだろうか。需要は、ある。
というわけでまったく新しい飲料を考案した。
来るべき新時代、ノーカフェイン、ノーカロリーのホットな全く新しい新感覚ドリンク「the SA-YU」。可能性は、無限だ。