なぜ赤穂浪士の討ち入りは日本で国民的支持を得たかー清水克行著『喧嘩両成敗の成立』より

旧暦の12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日だという。正直に告白すると、赤穂浪士に感情移入したことはない。
浅い知識しかないが、浅野匠頭が吉良に切り掛かって吉良は逃げ、浅野匠頭だけ処罰されたという話で、それに対し浪士たちが怒って恨みを晴らすため討ち入りした、と。逆恨みじゃないすか、と思いながら生きてきた。
赤穂浪士たちがどう思おうと構わないが、なぜその話が国民的支持を受けるのかがわからなかったのだ。
疑問を解いてくれたのは一冊の本だった。
ぼくのタネ本の一つ清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ 二〇〇六年)によれば、赤穂浪士討ち入りは“正義”の遂行だった(というのが同書の指摘)。
日本で生活をしていると「喧嘩両成敗」「痛み分け」「足してニで割る」「間を取る」「割り勘」という言葉を聞かない日はない。だが世界的にみると、これはかなり特異なことだ。
喧嘩や揉め事にしても、完全に双方が同じだけ悪いということはほぼ無いし、「割り勘」にしたって飲み食いした量はそれぞれ違うのに同じお金を負担するのは本来はおかしい。海外の人と会食して「割り勘」でやろうとしてうまく伝わらなかったという体験のある人は多いだろう(ものの本によれば「ダッチ・スタイル」と言えというが、「割り勘」主義をうまく伝えられたことは個人的にはない)。
だが論理的に考えるとどう考えてもおかしい「喧嘩両成敗」「間を取る」的な裁定の仕方は、なぜか日本的感覚にすっと馴染んでしまう。
この「喧嘩両成敗」主義が歴史文書に現れるのは1526年に今川氏親により定められた「今川かな目録」だという(前掲書 p.4。引用文献が民明書房でもミュンヒハウゼン出版でもないことにご留意いただきたい)。
分国法「今川かな目録」の第八条にはこうある(という)。
〈一、喧嘩におよぶ輩(ともがら)、理非を論ぜず、両方共に死罪に行ふべきなり。〉(前掲ページ)
この喧嘩両成敗主義がなぜ成立したかというのが前掲書のテーマで、この本はものすごく面白いのでぜひお勧めしたいのだが、それはともかくこの喧嘩両成敗主義というのが赤穂浪士討ち入り事件が国民的に支持された背景にある(のではないかと清水氏)。
討ち入り事件を聞いた人々の中で、浅野匠頭と吉良は〈喧嘩〉をしたのに一方的に浅野だけ処罰されたのは正しくないから、〈喧嘩両成敗〉という〈正義〉を遂行した赤穂浪士たちは〈正義の味方〉だ、という感情を引き起こした/引き起こすのだ。
前掲書のこうした説明を読んで、ぼくは初めて腑に落ちた。なるほどねえ。
なお、近代的な裁判制度などが整った現代においてもこの〈喧嘩両成敗〉主義は根強く日本社会に残っていて、なにか揉めたときには「みなの言い分はそれぞれよくわかった。だがこのままでは埒が明かないから、〈喧嘩両成敗〉じゃないけれども、間を取ってこうしよう」と言っとけばとりあえずその場はなんとなくおさまるからお試しください。まあたいていは問題を先送りしてるだけなんだけれども。
それではまた。