『壊れかけのRadio』を聞きながら(R)

「何も聞こえない 何も聞かせてくれない」
澄んだ声で徳永英明の「壊れかけのRadio」を歌うストリート・ミュージシャンの横を通りながら、何も聞こえず何も聞かせてくれないんだったら「壊れかけ」というよりは「壊れっぱなしのRadio」だよなあと思い歩く。
そんなことを思うのはとっくの昔にぼくが少年から大人に変わってしまったからだろうが、考えてみると1973年生まれのぼくの接してきた名曲にはつっこみどころのある曲が多い。

久保田利伸の「LA・LA・LA LOVE SONG」はduet withといいながらナオミ・キャンベルは「ワナメイクラブ、ワナメイクラブソング、ヘイベイビ」とつぶやいているだけだし、そもそもメリーゴーラウンドが「けして止まらないように」回ったら管理者は始末書ものだ。
平井堅の「瞳をとじて」も名曲だが、瞳はそもそも黒目の部分、瞳孔だ。
まぶたではなく瞳孔が閉じるというのは医学的に相当危機的な状況、pin point pupilが想定される。
渡辺美里の「10years」も改めて聞くと沁みるが、10年経ったら「大切なものは何か 今もみつけられないよ」とか言ってないで一個くらいは大切なものを見つけておきたい。
槇原敬之の「どんなときも。」の歌い出しは「僕の背中は自分が 思うよりも正直かい?誰かに聞かなきゃ 不安になってしまうよ」だが、40歳を過ぎた男は自分の顔だけでなく背中にも責任を持たなければならない。
ECHOESの「GENTLE LAND」もこれまた名曲だが、聞くたびに辻仁成っていうのは相当「愛されたい」人なんだなあと感心する。
最近では、西野カナって人は相当「会いたい」人だという噂だ。
http://matome.naver.jp/odai/2136250991545549201

こうなると、こういった名曲たちになぜこうも「つっこみどころ」があるのかが気になってくる。
作詞、作曲、編曲に歌い手、プロデューサーにエンジニアにとたくさんの音楽ビジネスの中の人の耳を通ってこうした曲たちは世に出てくるわけで、「つっこみどころ」が直すべきものなら必ず誰かに指摘されているはずだ。
歌詞のちょっとした違いでチャートが上下し、数千万円数億円という単位で売り上げが変わるかもしれないのに、直すべき「つっこみどころ」が放置されたまま商品として市場に出るとは考えにくいのではなかろうか。
そうすると結論は一つ、わざとやってる、ということになる。

完全な真円よりも楕円やたまご形のほうが見る人の興味を惹く。
真円はつるんとして心にひっかからないが、へこみや出っ張りがある円のほうが心にひっかかる。
聞く人の心に残るそうしたへこみや出っ張り=フックの役割を、こうした名曲の「つっこみどころ」は果たしているのではないだろうか。
完全無欠の完璧人間よりも、ちょっと何かが欠けているとかちょっと何かが過剰だとかいう人間のほうが出会った人の心に妙に残ったりするものだ。
そういえば渋沢栄一も、偉い人というのは智情意がアンバランスで、何かが欠けている一種の変態だと言っている(「偉き人と完き人」 「論語と算盤」p.103-105 角川ソフィア文庫 平成20年)。

「本当の幸せ教えてよ 壊れかけのRadio」
そんなことを考えているうちにストリートミュージシャンの「壊れかけのRadio」は終わりかけていた。
やっぱりいい曲だなあと思いながらも、今度は「本当の幸せを教えてくれるラジオ」というのがなにをイメージしたものなのかが気になってきた。
時代的にはFEN、米軍の極東放送でも想定したのか、よもや深夜の平壌放送でもないだろう。
もしかしたら案外、伊集院光の深夜放送あたりが正解なのかもしれない。
(FB2013年11月10日を再掲)