迷惑かけよう・かけられよう

<コドモの頃、親にさんざん言われてきた言葉がある。それは「人様の迷惑になるんじゃない」というコトバだった。>(細川貂々『7年目の ツレがうつになりまして。幻冬舎 2011年 p.72)
「子どもに迷惑かけたくない」。
そんな言葉を一日に何度聞くだろうか。
高齢のかたを相手に診療をしていると、そんな言葉を聞かない日はない。
そのたびに「いいじゃないですか迷惑かけたって。生きてればお互い様なんだから。○○さんも今までいろんな人のお世話してきたんだから、ちょっとは迷惑かけたって罰あたりませんよ」とぼくは言う。
あいまいな笑いが起こる。
心の底からこんなふうに言えるのは友人Oのおかげだ。
友人Oとは10年ほど前にとあるフォーラムをやった。
在宅医療をテーマにしたそのフォーラムは、たくさんの人の力を借りて相当な準備期間を経て開催してもので、多くの方々にご参加いただいた。
シンポジウムの終盤、在宅医療の先駆けの一人であるK先生や訪問看護師で有名なAさんら錚々たるメンバーが発言し、いよいよ大団円となったときにOがマイクを取って言った。
「それぞれ理想の死というものについて語っていただきました。ぼくは自分の最期、たくさんの人に迷惑をかけまくって死にたいと思います」
このままだとフォーラムがキレイゴトで終わってしまうと感じた、Oなりの危機感の表れだったんだと思う。あれは見事だった。
「人間」という言葉はもともと「人」と「人」の「間」、すなわち「よのなか」とか「社会」を表す言葉だった。
しかし歴史が経つにつれて、「人」そのものをも表すようになった。
だから人間は生きている限り「よのなか」を内包していて、人は人間関係においてのみ初めて人である、と和辻哲郎は言った(『人間の学としての倫理学岩波文庫2007年 p.18-20。初出は1934年頃)。

ちなみに、チクセントミハイによれば<「生きること」のラテン語の表現はinter hominem esse であり、文字通り「人々の間にいる」を意味している。他方「死ぬこと」はinter hominem esse desinereつまり「人々の間にいることをやめる」である>とのこと(M.チクセントミハイ『フロー体験  喜びの現象学世界思想社 1996年 p.206)。洋の東西を問わず、人というのは人間(じんかん)にいるものなのだ。
人と人との関係性はinteractiveなものだから、人間として人が生きている限り、迷惑も恩も情けも情も、かけたりかけられたりするもんなんだろう。

『迷惑かけよう・かけられよう』というゴールに向かって、考えながら書いている。
大井玄著『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書 2008年)によれば、1995年に日本尊厳死協会が会員3500人へのアンケート調査を行ったところ、「尊厳死の宣言書(リビングウィル)の要件の一つに老年期痴呆を含めるべき」という意見に回答者2300人中85%が「yes」と答えたという(上掲書 p.11-12)。今から20年以上前のアンケートであること、現在は日本尊厳死協会のリビングウィルの中に痴呆/認知症が含まれていないことを明記しておく。
当時のアンケートの中で、「老年期痴呆」(当時の言い方)になったときに延命を拒否する理由は、圧倒的に「家族や周囲の人に迷惑をかけたくないから」というものだった。
大井玄氏によれば、認知症になることを恐れる理由は、日本人の場合には「迷惑をかけるから」であるが、英米の文献では「自分の独立性や自律性を失うから」であるという(上掲書p.12。①)。
「まわりに迷惑をかけてはいけない」というpeer pressureが強すぎて、認知症になったら尊厳死を選ぶ、みたいになっているのだったら望ましくない。
多少迷惑をかけたとしても、天寿を全うしていただきたいというのが医療者の望みである、と思うのだが。
当時、尊厳死リビングウィル認知症を含むってのはめちゃめちゃ問題があって、認知症というのは相当にgraduationのある状態だしそんなクリアカットにいかないしってわけで現在は尊厳死協会のリビングウィル宣誓書に痴呆症/認知症の文字は抜かれている(②)。
おそらく医療者の多くは賛同してくれると思うのだが、人間が歳をとれば必ず周囲に多少の迷惑をかけるものだ。
「そんなことはない、俺はぴんぴんころりで行くよ」なんていう人も考えてみてほしい、ぴんぴんころりってのは突然死だ。ぴんぴんころりで逝ってしまったあとの後始末は誰かがするもんだし、そうそううまいことはいかない。
赤ん坊が誰かの世話を必要とするのと同様に、歳をとればやっぱり誰かの世話が必要になるってわけで、これはテツガクとか美学とかじゃなくて生物学的な話なのだ。
ではどうするか。
むかしのえらい人が言ってたように、「陰徳あれば陽報あり」。将来歳をとれば必ずだれかの世話になると腹をくくって、元気なうちに陰徳を積んどく、自分が誰かの世話をできるうちにちょっとだけ誰かを手助けしておいて、自分の人生の迷惑/お世話したされたの収支がトントンになるのを目指すというのがよろしいと思う。

冒頭のエッセイはこんなふうに結ばれている。

<(略)コドモを育てるようになって、人は人に迷惑をかけなければ生きられないんだということに気づいた。いいんだ。迷惑をかけよう。かっこ悪くたっていいのだ、と。何かをすれば、必ず迷惑ってかけている。僕のこんな文章をさらすことだって、迷惑だと思う人もきっといる。でもいいんだ。僕はコドモには「人様の迷惑になるんじゃない」とは言わない。……上手な迷惑のかけかたのテクニックを磨け、くらいは言うかも。>(細川貂々『7年目の ツレがうつになりまして。幻冬舎 2011年 p.72)

①申し訳ない、二次ソース
②経緯は要確認
(もしかしたら続く)

 

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