参議院選挙を前に思う(R)

7月10日は参議院選挙。
今回の参議院選挙では今までと違う点が二つある。18歳選挙権と合区だ。

一票の格差を是正するため、鳥取県島根県徳島県高知県がそれぞれ一つの選挙区に統合された。18歳選挙権と合区がどんな変化を社会にもたらすのかはまだわからないが、これを機に議論が活発になって欲しいと思うのは、「そもそも参議院とはなんなのか」「そもそも日本の国とはなんなのか」というテーマである。

 

参議院について時々話題にあがるのが「参院不要論」だ。
面白いことに、この「参院不要論」には全く両極端の状況のときに話題に上がる性質がある。
片方は衆議院での議論と参議院の議論がほとんど変わらないとき。
数式で表すと「参議院衆議院」のときに「参院不要論」が唱えられる。
この場合には「参議院衆議院カーボンコピーなので不要」と言われる。

 

もう一方は、衆議院での議論と参議院の議論が正反対なとき。いわゆる「ねじれ国会」のときが代表的だ。
数式で表すと「参議院=not衆議院」のときで、こんな状勢のときには「参議院が反対するから何も決まらない、決定の足を引っ張る参議院は要らない」という論が夕刊紙などに踊る(正確には「参議院=(−1)×衆議院」だが、(−1)だとネガティブなイメージを連想させるのでnotにした)。

 

しかしあえて言えば参議院の意義は衆議院と異なる視点からディスカッションを行うことにある。二院制について、両目の位置が違うからこそ物を立体的に見ることが出来るのだし、両耳の位置が異なるからこそ偏りなく聴けるのだ、と伊藤博文も言っている(『憲法義解』岩波文庫1940年 p.67)。
かつて参議院には是々非々の議論を旨とし、党議拘束を行わず活発な議論を戦わせることを誇りとした緑風会という会派が存在した。

 

「そもそも参議院とはなんなのか」と根を同じくするテーマが「そもそも日本の国とはなんなのか」というテーマである。
アメリカの上院議員は人口と関係なく各州二人ずつ。これはアメリカの国というものがそもそも州が集まってできた連邦国だという根本思想の反映である。
国際会議などでは人口に関わらず各国1票ずつ与えられるのと同じように、50の州が集まって作られたアメリカ連邦では、上院においては各州が同等の発言権を持つ、ということである。

 

仮に、「47都道府県が同等の権利と責任を持って日本国を形づくる」という根本思想があるならば、今回のような合区の議論は起こらなかったかもしれない。
参議院においては人口に関わらず47都道府県が同等の発言権を持つべきということになり「一票の格差」と参議院の選挙は無関係、となっただろうからだ。

 

横滑りするが、この人口と関係なくそれぞれの自治体が同等の発言権を持つという感覚は、全国の市長会などにはあるようだ。たとえ人口数万人の市の市長であっても、己の見識と経験に基づき堂々と人口百万人の市の市長に物申す風土が市長会にはあるように思える。

 

さて、アメリカ上院が各州2人ずつ代表を送りだすことにはさらに深い意味が込められている。
人間の集団には悲しいかな少数者を迫害する傾向がある。その迫害にストッパーを掛ける仕組みが上下院の選出方法の違いにあるのだ。
つまり、人口に比例して議席を与えられる下院では、物事が決まるときには国民の大多数が賛成することが可決される。すなわち少数者の利害への配慮は後回しにされ得る。
それに対し各州2人ずつ代表がいる上院では、多くの議員が人口の少ない州からやってくる。国連加盟国の大多数を小さい国が占めることを考えるとイメージしやすい。
上院で過半数を取りやすいのは小さい州なのだ。

 

下院では人口優先の判断をし、上院では小さい州に加重配分することで少数者が損をしないような判断をして違う角度からダブルチェックをすることでマイノリティの不利益を減少させることも目指しているのだ(ここの部分、A.ハミルトン、J.ジェイ、J.マディソン『ザ・フェデラリスト岩波文庫1999年 p.280)。

 

その選挙区の人口や人数だけが判断基準であれば、過疎地は後回しにされ続け、少数者の権利は踏みにじられ続けるだろう。だが、それでいいのか日本国。

日本でもそうした違う角度から国家の大事を検討するための場が参議院であるはずだ。
パワーゲームである現実の政治の世界において青臭い話であるのは十分承知の上である。
しかしステーツマンたる政治家にはぜひAn idealist without illusionでいて欲しいし、ときには「参議院かくあるべし」「日本国かくあるべし」を正面から語って欲しいと心より願う。

 

少なくともそうした「べき論」「そもそも論」がテレビの前のお茶の間にまで届いていないのは一国民として残念なことである。
<何でもかんでも一つのことを固執しろというのではない。妥協もいいだろうし、また必要なことも往々ある。しかしプリンシプルのない妥協は妥協でなくて、一時しのぎのごまかしに過ぎないのだと考える。日本人と議論をしていると、その議論のプリンシプルはどこにあるのかわからなくなることがしばしばある。>(白洲次郎『プリシンプルのない日本』新潮文庫平成18年 p.219)

ま、なにはともあれ、7月10日の投票日をお忘れなく。期日前投票もできますよ。
(FB 2015年7月25日を加筆再掲)

 

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