スーパー遅ればせながら『シン・ゴジラ』を観た。
これほどまでにネタバレを皆が慎んだ映画はなかなか無いので、もしやゴジラが意外に小さい(1メートル50センチくらい)なのではとか登場してからずっと動かない(エンドロールまでずっとそのまま)のではないかと警戒したがそんなことはなかった。
非常に面白く観たが、巨災対というのは『プロジェクトX』なんですね。学会の異端児や役所のはぐれ者たちが時に煙たがられながらも不眠不休でプロジェクトを完遂し、その結果所属組織、この場合日本を窮地から救う。
自分もそうだけど、この構図は日本人の琴線に触れますね。
と考えたところで、はぐれ者たちが逆転劇をくり広げて共同体を救うという構図が好きなのはなにも日本人だけではないな、と『アルマゲドン』の大ヒットを思い起こしたり。『7人の侍』も共同体のはぐれ者たちが大活躍して、それでも結局はぐれ者のままでいるって話だなー。
考えてみると、共同体のド真ん中、超本流に居続けられる人というのはそんなにいない。会社だとエリート新入社員からスタートして社長になる、役所なら課長補佐とかやって最後事務次官になる、学者なら助手(今だと助教)からがんばって母校の教授になってさらに学長になるとかが超本流だけど、そうじゃない人はみんなどっかのタイミングでフクザツな思いを持ってある種のはぐれ者になる。
だから、実ははぐれ者経験をしてマイノリティの悲哀と鬱屈を味わう人は相当多いわけで。
我が国の超本流であるやんごとない一家の方々ですら、英国に留学したりすると「はいはい、どうせうちらは極東ですよ」と思ったりしてるかも。
yes, everybody is minority.
要するにマイノリティはマジョリティってことで、だから巨災対の活躍に多くの人は感情移入するのだな、などと。
ネットの時代になって「もはや国民的ブームなんて起こらない、無数のコンテンツから各自が勝手に好きなモノを愉しむ時代」みたいに言われたけど、『シンゴジラ』といい『君の名は』といい、流行るものは流行る。結局コンテンツの力なんですね。
『シンゴジラ』、惜しむらくは劇場で観られなかったことで、MX4Dで観た人の話だと、ゴジラの吐息がほのかにラベンダーの香りがしたそうじゃないですか。人類を滅ぼす存在に芳しき香りをさせることで、破滅はときに魅力的な顔をして近寄ってくるという庵野流アイロニーと筒井康隆氏および大林宣彦氏へのオマージュらしいですが、もちろんウソです。
だまして申し訳ありませんが、礼にはおよびません、仕事ですから。
(FB2017年10月8日を再掲)
↓『シンゴジラ』は関係ありませんが…