”幸せ”は、熱と炭水化物で出来ている。

〈なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう
そんな気持ちわかるでしょう〉(『情熱の薔薇』)

ここのところ“幸せ活動”について考えている。
限られた人生の中で、“幸せ”がやってくるのをただ待っているのではダメで、自ら積極的に“幸せ”になりにいかなければならないのではないか、という話だ。

そのためには“幸せ”のエッセンスを抽出し、自分にとっての“幸せ”の本性をとらえなければならない。
“幸せ”と“好き”とか“楽しい”とかはそれぞれ重なりつつもちょっとだけ違うのだが、つらつらと考えてみたい。

パッと思いつくままあげてみると、餃子って幸せな気がしますねえ。あんまり悲しい気分で餃子食べたことない気がする。餃子の中でも水餃子や蒸し餃子も美味しいんだけど、幸せ度の高いのは焼き餃子な気がします。
同じ点心でもシュウマイや春巻では焼き餃子の幸せ度は出ないなあ。美味しいですけどね。

あとピザは幸せ感が高い気がしますね。これまた悲しい気分でピザ食べたことないなあ。
宅配ピザ文化のおかげで、ピザはなんか“ハレ”感ありますよね。
“ピザ”とか“ピッツァ”という名前の響きもいいんでしょうね。
「彼氏にフラれてつらくてつらくてピッツァしか食べられないの」って失恋相談されても「胃袋つえーなオイ」としか思えないですもの。

あとあれですね、幸せ感強いのは寒い日の立ち食いそばですね。
ぴゅうと北風が吹いてね、寒っとかなんとかいいながらね、ちょっと小腹が空いていてね、さみーなーなんていいながらコートの襟を立てて足早にみちを急いでいるとパッと立ち食いそば屋が見えてね、寒〜なんて言いながら店に入る。かけそばもちょっとさみしいからかき揚げとか卵とか乗っけてもらってね、パッと頼むとサッと出てくる。蕎麦つゆすするとあったかくて甘じょっぱくてね、あの瞬間は幸せを感じますな。蕎麦より蕎麦つゆを求めてるんだけどやはり蕎麦のない「天ぬき」とか頼む勇気はなくてね。ずずっと食べ切って「美味かった。親父、いま何どきだい?」なんて聞くと「うちは券売機だよ」なんて冷たく言われて、ああ今日もまた小さな幸せと小さな不幸せをいっぱい集めたなあなんて思うわけです。

結論)幸せは、“熱”と“炭水化物”で出来ている。