水槽の金魚と大海の深海魚~『鶏口牛後を考える』の続き。

先日マックでJKが(注)。
「なんか進路で迷っちゃってー。超アッタマいーA大学にギリで入るのと、まあまあのB大学行ってヨユーでトップでいくのとどっちがいいかなーって」
「超わかるー。なんかまわり超アタマいいと、その中で深海魚みたいに落ちこぼれると逆にキツいってゆうか」
「でしょー。ほら『ケイコーとなるもギューゴとなるなかれ』的な?」
「まあでもなー、まわりアタマいいと『自分も頑張る!』ってなるし?ほら『蓬(よもぎ)麻中(まちゅう)に生ずれば助けずして直し』っ言うし?ぐにゃぐにゃの草もまわりが真っ直ぐ伸びる麻ばかりだと自然に真っ直ぐに伸びてゆく、っていう意味らしいよ。環境って大事だからねー」
ほう最近のJKは『荀子』も読むのかと感心したが、どう考えても作り話である。
 
さて、以前より「鶏口となるも牛後となるなかれ」というのが本当か考えてきた。
たとえば小さな集団の中でトップでいると楽で、デキるヤツばかりの集団の中で深海魚のように落ちこぼれるとキツい、というのはわかる。
しかし深海魚には深海魚なりの楽しみがある。
世の中にはすごいヤツというのがたくさんいて、ぼくの同級生にも試験の6時間前から授業ノートのコピーをいやいや眺めてそれで及第点を取るヤツがいた。
そうしたいわば誰よりも速く泳ぐメカジキや、誰よりも大きなクジラ、絡みついてくる巨大イカのウヨウヨいる大海でまずは深海魚としてでも暮らしてみれば、メカジキやクジラの泳ぎ方も学べるし、学べなくともそうしたヤツらとどう付きあえばよいかわかる。
 
「水槽の中の金魚として生きるのもよいが、大海の深海魚として生きるのもまたよいものだよ」
そうJKに声をかけようと思ったが、不審者扱いされるのもイヤなのでやめておいた。
留置所の深海魚として生きるのだけは避けておきたい。
 
(注)ニュースソースを秘匿したい時やダイレクトに自説を述べるとカドが立つ場合に「マックでJKが言ってたけど」というふうにやわらげる話法がある。こうした話法を専門家の間では「McJK話法」と呼ぶ。
ちなみに何を言われても「なんというか!んーごきげんだぜっ!」と相槌を打つことを「mcAT話法」と呼ぶが、いずれも嘘である。

 

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