生きることの天才、逝くことの達人(文学作品編)

生きることの天才や達人もいれば、逝くことの天才や達人もいる。文学作品の中にも、そうした逝きかたの天才や達人がいる。
 
〈(略)臨終だといっても、友人や親戚の者は喜ぶでもなければ、悲しむでもない、いや、かんじんの死んでゆく当人さえもが、その未練の無さといったら、まるでちょっと隣人を訪ねて、それが暇を告げて帰ってゆくといった形で、悲しい顔色などは薬にしたくもない。〉(スウィフト『ガリヴァ旅行記』新潮文庫 昭和二十六年p.345)
 
スウィフトの『ガリヴァ旅行記』の後半では、賢い馬の種族フウイヌムの国を訪れる。フウイヌムたちは賢く気高く穏やかで理知的だ。
フウイヌム達は事故以外で命を落とすことはなく、70歳から75歳まで生きる。そうして天寿が尽きる2、3週間前になると、自然に自分の寿命が来ることを悟る。そして家畜人ヤフーに引かせたソリに乗り、友人や親戚を回って暇ごいをするのだ。
 
こうしたフウイヌムの逝きかたを彼らの言葉で〈シュヌウン〉といい、原初の母の許(もと)へ帰るというくらいの意味だという。
シュヌウンの挨拶をする側もされる側も悲嘆するでもなく取り乱すでもない。「シュヌウンするなら寂しくなるねえ」くらいのものなのだろう。
こうしたあっさりした逝きかたは、ぼくの憧れるところだ。
 
あっさりとした逝きかたの天才フウイヌムとは真逆の方向性だが、もう一つ憧れる逝きかたをした達人が文学作品の中にいる。
最上級のウイスキー“クラウンロイヤル”しか飲まない新聞王、トンプソン氏だ(Tさん、原著のご教示感謝です!)
 
〈(略)死ぬ直前の最期に、彼は自分の息子にこういい残したのだ。
「おまえね、人生というのはわからないものだよ。オレはこれまで、人生でいちばん最高なのはカミングだと思ってた。だけど、ゴーイングのほうがはるかにすげえ気持ちになれるぜ」と。〉(落合信彦『狼たちへの伝言』底本1993年 kindle版85/206)
 
アサヒスーパードライを片手に颯爽と登場し、今ではなんとなく無かったことになっている(たぶん奥菜秀次氏の仕事が効いたのだろう)が、率直にいって今の40代後半から50代男子の性格形成にかなりの影響を与えた落合信彦氏の著作の一節だ。ここでは虚実は問わない。
 
落合氏の著作のこの人物はアメリカの地方新聞の雄、トンプソン氏だ。
ボルティモアのメッセンジャーボーイから叩き上げて新聞王となったトンプソン氏は、一流を好み、自らにも他者にも妥協を許さなかった。
 
腎臓ガンを患い、末期になって全身に激痛が走るいまわの際になり、モルヒネによる鎮痛を勧められてもこう制すのだ。
〈「まだオレがいいっていうまでは、絶対に注射をするな」
続けて、こうもいったのだ。
「オレがこれまでの人生で経験しなかったのは死ぬことだけだ。だから、これだけは見きわめたいんだ。好きにさせろ」〉(上掲書 同頁〉
 
『ガリヴァ旅行記』に出てくるフウイヌムたちのあっさりした逝きかたもあれば、こうした苛烈な逝きかたもある。
日本ではあまり言わないが、「生の完成」を人生の目的とするならば、こうして最期まで己の運命と取っ組み合いの格闘をして世を去るのも一つの逝きかたなのだろう。
 
死ぬ予定も死ぬつもりもないのでご安心いただきたいが、人生後半になるとエロスよりもタナトスのほうが魅惑的に思えることもあるのだというのは発見であるなあ。