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増大する社会保障費をどう考えるか(R)

「時々ふと思うんだけどさ、医療や年金とか社会保障ってのは、どれだけ意味があるのかな?たとえば100歳の人に一生懸命医療費をついやしてもさ、その人は別に働けるわけでもないわけじゃん。年金もそうだよね。
そんなふうに、社会保障費使っても、経済成長にはいいことないんじゃないかなって疑問が、ふっと湧いてくることがあるんだよね」
久しぶりにあったある友人が酔いにまかせてそう言った。
働き盛り、納税まっさかりの彼としては、そう思うのも無理はないのかもしれない。

「金より命が大事」といって話を終わらしてしまっては単なる思考停止で、そう簡単に思考停止してしまっては、知恵の実を喰らって楽園を追い出されてたご先祖様に申し訳が立たないというものである。
経済成長が大事という点に異論はないし、その観点から社会保障を考えるとなにが見えてくるだろうか。

まず第一に、高齢化に伴う社会保障の増大とそれをどう抑制するかは先進国共通の悩みである(英エコノミスト編集部 『2050年の世界 英「エコノミスト」誌は予測する』 文藝春秋 2012年 p.216-233 「第十章 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか」)。
フランスでは年金支給開始年齢の切り上げに反対するデモが2010年に起こっているし、
日本の社会保障費は税金・年金・保険料・介護保険料などすべて合わせると100兆円規模であり、安全保障費5兆円の約20倍の金額だ。

社会保障をシンプルに「みんなでお金を出し合って誰かの病気などの危機に備える」と考えると、意外にも軍事国防警察などの安全保障と似ていることに気付く。
泥棒や強盗、はたまた他国からの侵略に対し、国民一人だけで守りを固めるのは至難の業だ。
鉄壁の城塞を自分で建て、自腹を切ってボディーガードを雇い、自分ひとりでミサイルや戦闘機まで購入していたらいくらお金があっても足りないし、そういった外敵から身を守るだけで一生が終わってしまう。
そんな非効率的なことをするくらいなら、国民みんなでお金を出し合って専門家集団を育成し、外敵から身を守ってもらうようその人たちに警察や自衛隊というポジションで働いてもらうほうがよい。

それと同じようなことが社会保障にも言える。
がんや心筋梗塞になってからあわてて自分で手術の仕方を勉強し、自分で抗がん剤などを研究して作り、放射線治療だの重粒子線だのの機械まで発明しなければならない世の中だったら到底間に合わない。
そんなことをするくらいなら、国民みんなでお金を出し合って専門家集団を育成し、病気という内なる敵から身を守ってもらうようその人たちに医師や看護師というポジションで働いてもらうほうがよっぽど効率的である。

実際、社会保障という考え方は安全保障と近いところにあり、医療などを「命の安全保障」などと呼ぶ人もいる。
そもそも、歴史的にも社会保障は「弱者への慈悲の心」から出たものではなく、鉄血宰相ビスマルクによって強い国を維持発展させるために作り出されたという(田中滋 「社会保障制度はいつ何のために始まったのか」 明治安田福祉生活研究所HP http://www.myilw.co.jp/…/publica…/quartly/backnumber/84.html)。
日本で厚生労働省の前身である厚生省ができたのも、昭和初期恐慌での国民の栄養状態の悪化や結核の流行によって軍隊内部の体力低下に軍部が危機感を感じ、衛生省をつくって結核対策や国民体力向上をしようと考えたことが背景にある(新村拓編 『日本医療史』 吉川弘文館 2006年 p.266-268)。結核と栄養失調で国力が落ち、それに対処し国を強くするために「衛生国策遂行の中央統轄行政機関の整備」(上掲書 p.267)が必要だったというのは現代の日本で実感するのは難しいが、そうした「健民健兵政策」の一環として厚生省ができたという経緯は知っておいて損はない。

もちろんなにごとにも適正な規模というのはあるわけだが、「社会保障は弱者を甘やかし、国を弱体化するに決まってる」というふうに言う論者がいたら、きちんとそこらへんの歴史的経緯を踏まえているのか問うべきだ。

また、社会保障は経済活動をサポートするものでもある。
病気になった働きざかりが治療を受けられるからこそ社会復帰ができる(可能性が高まる)。
病気になったら二度と社会復帰できないような世の中であれば経済活動に参加できる人はどんどん減っていってしまうだろう。
ぼく自身が日々の診療で痛感するのは、認知症のお年寄りの家族の大変さだ。
通院のたびに会社を休んで付き添う息子さんや介護のためにパートタイムに切り替えた娘さんと毎日接していると、よい診療によって患者さんである親御さんをいい状態にキープすることができれば間接的に働き盛りの息子さん娘さんのサポートをすることになるのだと思う。
月に一度の受診の付き添いであればなんとか会社の理解が得られたとしても、具合が悪くなって毎週のように病院通いの付き添いをしなければならなくなったり、入退院を繰り返すようになったとしたら、息子さんも会社に居づらくなってしまうかもしれない。

年々審査が厳しくなる介護保険制度にしたって、その制度ができる前は親の介護のために仕事を辞める女性(男性もだけど)はもっともっと多かったはずだ。
直接熟練労働者世代や兵役世代をターゲットにしたビスマルク時代や昭和初期とは異なり、現在の社会保障制度の最大のターゲットはリタイアした高齢者世代であるが、それでもなお社会保障制度は間接的に勤労世代の経済活動の強力なサポートとなっているのではないだろうか。

引き続き、「社会保障制度は経済活動にとって意味があるのだろうか」ということについて考えてみる。
「みんなでお金を出し合って誰かの危機に備える」という社会保障の性質に立ち戻って考えると、これが個々人のリスクヘッジとしてかなり有効なことに気が付く。
病気や加齢といったいざという時のために自分ひとりでお金を貯めておくことを考えると、冷静に考えれば考えるほど、いくらあっても足りない。
実際、公的医療保険が極端に少ないアメリカにおいて、破産の理由の大半は『高額な医療費』だそうである(堤美果著 『ルポ 貧困大国アメリカ』岩波新書 2008年 p.65-66)。
もちろん公的医療保険がなくてもたくさんの民間医療保険はあるが、民間医療保険では「チェリーピッキング」や「ミルクスキミング」と呼ばれる問題が起こる。
ざっくりいうと、病気を持っていたりしてたくさん医療費を使いそうな人を加入しにくくすることによって経営を安定させようとする傾向が出てくるのだ。
集めたお金を投資家に還元しなければいけなかったり、4半期ごとに成長しなければならなかったり、民間医療保険もいろいろ大変なのである。

社会保障には年金制度もある、というか金額は年金制度の割合が非常に大きい。
運営の仕方の問題はあるにせよ、もし年金制度が無ければ、みんなが老後に備えてもっともっとお金を貯めまくることになる。
そして結局使われることなくタンス預金のまま市場に出なければやはり経済活動に対してマイナスになってしまう。

社会保障と経済活動との関係について別の角度から考えると、医療活動は経済活動そのものであるという面もある。
私立病院の予算の約50%、公立病院となれば予算の60%以上は人件費である。
見方を変えればそれだけのお金が地域に住む従業員の収入となり再投資に向かうわけだ。
使ったお金の何割かが誰かの所得になり、その所得の何割かがまた使われてさらにほかの人の所得になってとお金がめぐってめぐって波及効果をもたらし、当初のお金の額の何倍もの経済効果をもたらすことを乗数効果という。
ケインズ乗数効果の説明で波及効果を49%と仮定しているが(J・M・ケインズ 『ケインズ説得論集』日本経済新聞出版社 2010年 「繁栄への道」p.232)、そう考えると予算の50~60%が人件費となり地域に還流されるというのは、これは地域にお金を還流する仕組みとしては相当優秀だ。

ここまで社会保障制度についていいことばかり書いたが、もちろん現状で問題点が多いのも事実だ。
「みんなでお金を出しあって誰かの危機に備える」ことの欠点は、「自分のお金じゃないからどんどん使っちゃえ」という動きが出てくることだ。
Everybody’s business is nobody’s business、連帯責任は無責任、ならぬ、Everybody’s Money is nobody’s Moneyとでもいおうか、あるいは「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」なるジャイアニズムの温床となるとでもいったらいいか。
「共有地(コモンズ)の悲劇」なんて言い方もあるな(Garrett Hardin "Tragedy of the Commons"
http://www.econlib.org/library/Enc/TragedyoftheCommons.html)

社会保障と経済活動について順不同でつらつら書いてみたが、電車の乗り換えなのでこれくらいで。
こんなもんでどうでしょうか、Mくん。
(FB2013年8月29日を再掲)

 

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