セレンディピティという言葉がある。
「思いもかけない予想外の発見をする才能」という意味で、1754年、ホレース・ウォルポールが友人への手紙の中で初めて使ったとされる(R.M.ロバーツ『セレンディピティ― 思いがけない発見・発明のドラマ』(株)化学同人 1993年 p.ⅶ)。
上掲書によれば科学はそうしたセレンディピティのドラマにあふれていて、万有引力の法則、ペニシリンやX線、テフロンやマジックテープもセレンディピティの産物だという。
ここ数日ノーベル賞のニュースが新聞やweb上をにぎわしているが、ノーベル賞の原資になったダイナマイトもまた、セレンディピティが生んだという説がある。
<一説によれば、ニトログリセリンの金属性(原文ママ)の容器に穴があいて漏れ、中の液体が金属容器の周りのパッキングにしみだしているのが見つかったという。このパッキングの材料はケイソウ土であり、北ドイツ地方に広く分布している安くて軽い多孔性の鉱物だった。ノーベルは、たまたま穴のあいた容器からニトログリセリンが漏れ出して、ケイソウ土とペースト状に混ざり合っているのを見つけた。おそらく彼は実験的にこれを試してみようという気になったのだろう。>(上掲書 p.117-118)
実際には諸説あって、単体では不安定ですぐ爆発してしまうニトログリセリンをケイソウ土にしみこませて安定させ、ダイナマイトとするという方法はノーベルが論理的に考え出したのだという説もあるそうだ。
いずれにせよ、科学にはセレンディップな瞬間がついて回るようだ。
しかしセレンディピティはなにも、科学者だけの特権ではない。
スタバのソイラテはあるお客が「ミルクのかわりに豆乳でカフェラテ作れない?」と店員に聞いたのがきっかけで生まれたそうだ。
もしその店員が「うちは豆乳ないんですよねー」と言ってスルーしてしまえば、セレンディピティは舞い降りなかった。別のカフェチェーンが思いついて、看板メニューにしてしまっていただろう。
ビジネスにも、売上を上げるセレンディップな瞬間というのはあるものだ。
以前にある女性議員がぼくに語ったことがある。
「昔ね、市民のかたが私のところに相談に来たの。
自分は何十年も一つの会社で働いてきて、年金もきちんとおさめてきたのに、どうも計算よりもらえる年金が少ない。これはおかしんじゃないかって」
ほうほう。
「すごーく几帳面なかたで、若いときの給与明細とか全部とってあったの。
だからそれを資料として年金事務所に持っていって、わたしその方と一緒に事務所に計算の間違いを認めさせたのよ。そんなことってあるものなのね」。
ぼくは聞きながら、政治の世界にもセレンディピティがあるのかと驚いた。
年金額がおかしいけどどうしたらよいか、と市民の方がその議員のところに陳情に行ったとき、セレンディップの天使は女性議員の肩に舞い降りそうになった。
もしそこでピンときて、「一件あることは二件ある、二件あることは千件ある」と思いついて、同じような目に合っている人を地道に探していったら、その女性議員はもしかしたら「消えた年金問題」のエキスパートとなって、厚生労働大臣にすらなっていたかもしれない。
セレンディップの天使はすでに飛び去ったが、その女性議員はセレンディップの天使が自分の近くに来ていたことすら気づかなかったのだろう。
科学にもビジネスにも政治にもセレンディップな瞬間があるとすれば、その瞬間を逃さないためにはどうしたらよいのだろうか。
たぶん必須なのは、ねちっこさ。
あれ?と思ったできごとがあったらスルーせず心にとめておく。
豆乳で作ったカフェラテが飲みたい客が来たら、「変な客」と忘却せず、心に留めておく。
そして同じ事象が二度三度と繰りかえすのかじっと見るのだ。
そしてたしかに同じことが二度起こったら、それをひとに話したり文章にまとめてみる。
人に話すときやものを書くと、頭の中が整理される。
それぞれの共通点らしきものがうっすら見えてきたら、それこそが誰も知らないなにかの法則だ。
そうやって地道にねちっこく観察し記録することでしか、セレンディップの天使は降りてこない。
そして降りてきたセレンディップの天使は、絶対に逃してはならない。逃したら最後、ほかの誰かのところにセレンティピティが行ってしまうだろう。
そういいながらも僕自身、たぶん気づかないまま今日もいくつものセレンディップな瞬間を逃してしまったんだろう。嗚呼、なんてもったいない…。