「がん検診100パーセント」。
都知事選に立候補したある候補が掲げた公約を見て思い出したのは、健全健康党だ。実在の党ではない。アレックス・シアラーの小説『チョコレート・アンダーグラウンド』(2004年 求龍堂)に出てくる。
小説はこんなふうに始まる。
<少年たちは告知ポスターを見た。のりの中に空気の泡が入っているせいで、ところどころふくらんでいる。
本日五時以降チョコレートを禁止する。
今後、チョコレートは何人にも売買してはならない。
ただし、適正な医師の診断書がある場合はこのかぎりではない。
それ以外の場合、菓子やチョコレートの販売は、これを禁止する。
違反した者は、五千ポンドの罰金または懲役刑に処す。
これは行政命令である。
健全健康党 発行
国民に選ばれた代表
(われわれは、よりよい健康及びよりよい歯のため、悪しき食生活による肥満や疾病の排除のために力をつくします)>(上掲書 p.6-7)
チョコレートや甘いものの摂り過ぎが健康を害することは明らかだ。だが、だからといって強制的にそれを禁じられることには、誰だって反対するだろう。
それと同じように、がん検診を受けてがんの早期発見をするのはいいことだが、強制されるものではない、というのが普通の感覚だと思う。
がん検診の受診率を100パーセントにするには、ある種の強制性が必要だ。そうでなければ受診率が100パーセントになるなんてあり得ない。
強制性を覚悟して言っているのでなければ、「がん検診100パーセント」を公約に掲げるのは無邪気すぎる。強制的にやるつもりなら、はっきり言って怖すぎる。
この、「健康にいいことだからといって簡単に強制なんかできない」というのは非常に大事なポイントだ。ここから話が横滑りする。
よく、「これからは予防医療の時代だ。予防医療はこれから盛んになってくる」と気楽に言う論者がいる。しかし予防医療が大事なんてことは数十年も前に、長野県の佐久総合病院の若月俊一先生らによって主張され実行されてきたことだ。若月先生らの活動は一定以上の効果を上げたが、いまだに「予防医療を広めよう」と言われ続けたままでいるのにはもちろん理由がある。
アクター別にみれば、政府・行政サイドの事情、患者・国民サイドの事情、医療者側の事情がある。
「がん検診100パーセント」問題と絡めて言うと、政府・行政サイドの事情がまず大きい。
我々の国日本はもちろん、理念的には自由主義に基づいて運営されている国だ。
自由主義の国では、他人に迷惑をかけない限り個人は基本的に自由だ。
自由主義の考えかたを形づくった一人、J・S・ミルはこう言う。
<個人も社会も、そこはもっぱら自分に関係するというところについては、そこを自分の領分にできる。生活のうちで、何よりもまず個人に関係する部分は個人に属し、社会に関係する部分は社会に属することになる。>
<(略)個人の行為が当人以外の誰の利益にも影響を及ぼさないなら、また、相手の人(成人で、普通程度の理解力がある人)が望まないかぎり相手に影響を及ぼさないなら、そのような問題は出てくる余地もない。こういう場合には、個人は完全に自由であり、好きなことをして、その結果の責任を自分で引き受ける自由が、法的にも社会的にも認められなければならない。>(ミル『自由論』光文社古典新訳文庫 2014年 kindle版 第四章「個人にたいする社会の権威の限界」)
人に迷惑をかけなければ何しても自由、というのは自由主義国家に生きる我々にとってあまりに当たり前になっているのでミルの言葉はかえって新鮮味がないかもしれないが、個人の自由がはるかに制限されている国や社会はいくらでもある。
いくら健康のためだからといって、チョコレートの禁止やがん検診を強制するのはこの自由主義のフィーリングと相性が悪い。
予防医療も強制はできないので、論者が考えるほど簡単には普及しづらいのだ。
感染症などに関する予防医療(ワクチン接種や一定期間の登校・出勤の停止、場合によっては隔離など)の場合には、「感染を放置したら他人に危害を加える」ために、強制性はやむを得ないものとされるのだ。
しかし生活習慣病やがんは、「他人に危害を加える」わけではないし(重症化したら健康保険の支払が多くなる、という程度)、個人の自由を侵害してまで予防医療を強制はできない。
自由主義社会において、人は「病気になる自由」も有しているのだ。
それをわかっているからこそ、政府・行政サイドは強制的に予防医療を進めることについて抑制的なのだ。
予防医療が言うほど普及しない理由の一つはそこにあるが、医療者はあまりそこのところを指摘しない。自分の専門分野にのみ注意が集中しているためだ。
予防医療が言うほど普及しない理由、政治・行政サイドの事情は以上だ。これに比べると患者・国民サイドの事情や医療者側の事情は小さな話なのだが、その部分はまた後日。