「忖度忖度っていうけど、どこの組織にだってあることじゃない?」
そう言いながら彼は鳥の軟骨揚げを口に放り込み、レモン酎ハイをおかわりした。
「仕事を上手く回すためには、時にはエラい人の意向を汲んでフツーと違う段取りで仕事することだって必要じゃん。だから忖度の何が悪いのって感じだよね」
なるほど。
正義だ公正だとか正面切って怒れるほどこちらも若くないが、エラい人の意向を汲んで通常のルールや法律をすっ飛ばして何かを行う「忖度」が好ましくない理由を考えてみたいと思う。
物事を考えるには、どの視点で考えるかを意識しないといけない。
社会全体をゲームに見立てて、そのプレイヤーの一員として社会をみるミクロの視点なのか、ゲーム全体を上から眺めるマクロの視点をとるのかで見えるものは違う。立ち位置によって見える風景は違うのだ。
そこらへんに無自覚な人は多いが、自分は今どの視点で発言しているかを明確化できない人は物を考えるのには不向きだ。
冒頭の友人のコメント、「忖度なんてどこにでもある、あって当然」というのはミクロ視点の話だ。コネとか縁故とか接待とか駆け引きとか、そんなものを駆使してそれぞれのプレイヤーが自分に有利にゲームを進めることはたくさんある。
だがマクロの視点、社会というゲームをよりスムースに動かすという視点からすると、忖度が横行するのは望ましくない。個々のプレイヤーにとって、ゲームが複雑化しすぎるからだ。
個々の人間の時間と能力には限界がある。
他プレイヤーの動向すべてを頭に入れて瞬時に判断してゲームを進めていくには、それぞれのプレイヤーの動きがランダムで「なんでもあり」だと頭がついていかない。
あるいはお互いに腹の探りあいや牽制のし合いばかりになり、ゲームの進行が非効率的になる。
だから社会というゲーム、経済というゲームでは慣習・法律・契約で相互の行動を縛り、互いの動きを単純化(それでも複雑ですけれども)しておく必要があるのだ。
相互に慣習・法律・契約を守ることで、互いの行動が予測可能なものになり、それによって社会というゲーム、経済というゲームで各プレイヤーが発展的な方向にエネルギーを使えるのである。
縁故主義/ネポティズムが支配する社会や、縁故資本主義/crony capitalismが跋扈する経済だと結局相互のやりとりが複雑化しすぎたり、根回しや買収にコストやエネルギーがかかって社会や経済が発展しない。
例えばライバル社がエラい人に多額のリベートを贈っている場合、こちらはその倍のリベートを贈る、などをやりあっていると、本業のビジネスに割けるコストやエネルギーが減る。
その分経済ゲームの全体の発展度合は減るから、それだったらきっちり慣習や法律や契約を作って遵守し、余計なところにコストやエネルギー使わないようにしましょう、というのがルールを守る意義だ。
まあこれはマクロ視点の話で、ミクロ視点ではウラでこちょこちょやったりするんだろうけど、それは程度問題、人間社会の機微ってやつで、やり過ぎるとゲームから追い出される。
中国の経済発展とか見ていると縁故主義・縁故資本主義経済でも結構回るのかもしれない。
だが、フェアプレイ精神を愛し、互いにルールと契約を守り、「人の支配」ではなく「法の支配」を尊重し、その結果縁故にかけるエネルギーとコストを節約してきたアメリカが独立以来100-200年ほどで超大国化したことを考えると、「法の遵守」と「自由経済の発展」は密接な関係があるように思われる。
実際、途上国援助とかでも、先進国がまずやるのは法律家を送り込んで法の整備をすることだしなー。
縁故主義社会でのし上がろうとするのにいかにコストがかかるかは、オノレ・ド・バルザックの『ゴリオ爺さん』(新潮文庫)などもお勧めです。
というわけで、「忖度」が横行する社会や経済ってものはどうも発展のエネルギーがそがれてしまう。もちろんこの話はマクロ視点の話なので、個々のプレイヤーに戻ってミクロの視点にもどれば、忖度したりしてもらったりというのは人間が生きている限り続くだろう。
それにしてもこの時期に電子システム更新して古い記録消しちゃうって、エラい乱暴なことしますな。