勤務先の中條医院の待合室に医療医学マンガ文庫を充実させるべく、名作・有名作を少しずつ集めている。そのなかの一つに山田貴俊『Dr.コトー』がある。
離島の古志木島の医師、五島健助、通称Dr.コトーの活躍を読みながら、ぼくはその昔見学に訪れた、沖縄のある島のドクターから聞いた話のあれこれを思い出していた。
「離島の医療って実際にはどんなものなんだろう?」
そう思って、訪れたその島は那覇から小型プロペラ機で約数十分。人口数百人の島だった。
島の診療所にはN先生と看護師さん、医療事務さんの3人が勤めていた。
沖縄にはたくさんの離島があって、その離島の人たちの暮らしを支える地域医療がある。ほんの少しを垣間見ただけだが、眼からウロコの連続であった。
例えば昔から沖縄はプライマリケア、総合診療の教育が充実していることが有名だった。あれはなぜなのかと言えば、「医者のキャリアパスの中に、離島勤務があるから」ではないだろうか。以下、仮説。
沖縄で医者として働く以上、数年のトレーニングののちに離島に赴任する可能性がある。多くの離島では、数百人から千数百人の住民の健康を、たった一人で守る。
どんなにたくさん医学論文を読んで勉強していようが特殊な手技がうまかろうが、ハブにかまれた人の治療ができないようでは沖縄では「デキる医者」にはなれない。
だから沖縄では、一人の医者が人間の病気をいったんは一人で診る総合医療が発達した(と思う)。
また、沖縄には沖縄県立中部病院という有名な病院がある。
「あの病院で研修するとデキる医者になれる」と医学生の憧れの的の一つだ。
これもまた歴史的な背景がある。
第二次世界大戦終結後、激しい地上戦のあと、沖縄にはわずかな医者しか残されていなかった。このため米軍占領下の琉球政府は、毎年本土の医学部に送ることにした。
本土の医学部を卒業し、医者になって沖縄に帰ってくることを期待したのだ。
しかし残念ながら、本土で医者になった沖縄の若者は、あまり沖縄には戻ってこなかったという。医者になってからトレーニングする場所が沖縄になかったからだ。それで作られたのが沖縄県立中部病院だという。
日本には最近、三十数年ぶりに新しく医学部が二つできた。もともとの理由は地域の医者不足だったように記憶している。
地域で働く医者を増やすには医学部を作るだけでは不十分で、その地域にオンザジョブトレーニングできる病院、熱心に指導してくれる先輩の医者の存在が不可欠である、という沖縄の地域医療の歴史が教えてくれることは多い。
(この話、続く)