「患者さんが診察室に入ってきて椅子に座る。そのときの歩き方で、もう診断がつくようじゃないとね」
F先生が言った。
例えばパーキンソン病の患者さんでは、猫背気味で歩幅は小さく、腕の振りも目立たない。
あるいは脳梗塞の患者さんなら、片方の脚を引きずって入ってくる(ことがある)。
小脳の病気なら脚を左右に幅広に開いた歩き方だし、正常圧水頭症の患者さんならそれに加えて足をあまり持ち上げずまるで床に足が磁石でくっついたような歩き方になる(ことがある)。
診察室のドアを開けて椅子に座るまでの間に、病気についての様々な情報を与えてくれる。
ぼくが生業としている神経内科という科では、診察室のドアを開けた瞬間から診察は始まっているのだ。
歩き方以外にも、医者は患者さんの外見から色々な情報を読み取る。
貧血の人はやはり顔色が白いし、肝臓がすごく悪ければ白目のところが黄色く染まる。
まぶたの内側、鼻よりのところにぷくっとした膨らみがあればコレステロールが高いのではないかと疑う。「眼瞼黄色腫」というやつで、モナ・リザの絵にはこれがあるからモナ・リザはコレステロールが高かったのではないかという説がある。
黒目をペンライトで照らせば、白内障の手術をした人は眼内レンズがキラッと光るし(本当)、さらによくみれば眼内レンズに印刷された「Nikon」の文字が見える(ウソ)。
目のまわりがやや黒ずんでいて、長いまつ毛がたくさん生えている人は、聞いてみると緑内障の点眼薬を使っていたりする(緑内障の点眼薬の一部でまつ毛が生える副作用がある。そのうち美容用に改良されて転用されるかもしれない)。
病気に直結しない場合もあるが、患者さんの服装も大事だ。その人の年齢や状況、季節などとかけはなれた服装の場合、精神的なアンバランスさを内包している場合がある。
また、服をよく観察すると、動物の毛がついていてペットの存在を教えてくれることがある。
手もまた雄弁だ。
何本かの指が欠損していれば、工場勤務で事故により指を失ってしまった過去があることがわかるし、場合によってはアウトローの世界の人のこともある。
左手の薬指に指輪があれば配偶者の存在を期待できるし(いわゆるキーパーソンがいるかいないかは、治療にあたって非常に大事だ)、指輪ではなく指輪の入れ墨が左手の薬指に入っている場合には、若いときに「ヤンチャ」過ぎた可能性がある(地域による)。
歯もまた大事で、一時期流行ったいわゆるシンナー遊びの経験者では、歯が溶けていることがある。
シンナーを常習していた場合、空き缶に入れて吸っていた人は前歯中心に溶け、ビニール袋に入れて吸っていた人は全体的に溶けるという。
話し方もまた、多くの情報を与えてくれる。
症状を話すときに「発熱」ではなく「熱発(ねっぱつ)」という表現が飛び出せば医療関係者かと身構える。
患者さんが「仕事でレクが忙しくて」という言い方をしたときには官公庁の人かもしれない。レクはレクチャーのレクである。
「どこどこへ行って、“じご”、熱が出て」という話をした方は自衛隊出身者だった。“じご”は、そのあと、みたいな意味の自衛隊ワードで、漢字だと“事後”と書くのだろうか。
こんなふうに、今日もまた五感を研ぎ澄ませて診察に当たるわけであるが、残念ながら味覚だけはまだ使う機会がない。
付記:味覚を診断に使った例として、その昔、アフリカから奴隷を連れてくるときに奴隷商人がアフリカ人の顔をなめて「味見」した話がある。汗をかきやすい奴隷は顔が塩辛く、塩辛い奴隷は長い航海で塩分と水分を失って脱水症になりやすく航海中に亡くなる可能性があるから、塩辛くない奴隷を選んで連れて帰った、という。その結果、現代アメリカのアフロ・アメリカンで奴隷にルーツを持つものは塩分感受性が高く、白人に比べ短命である、という仮説があるそうだ(スティーヴン・レヴィット他『0ベース思考』ダイヤモンド社 p.103-107)。
永井明先生の『ぼくが医者を辞めた理由』の中にも、生化学の教授が「医者は五感を使って注意深く患者を診なければならん」といってリンゴジュースで医学生をだます話が出てますね。