コロナ禍が過ぎ去ったあとの「ニューノーマル(新常態)」論が賑やかだ。専門家会議から、ウィズコロナ時代の「新しい生活様式」も提唱された。
コロナ禍が過ぎ去るのはいつかわからないが、コロナ後の世の中を考えると、個人的には、しばらくしたらみないろいろ忘れておおかたは元に戻ると思う。スペイン風邪が過ぎ去ったあとも世の中は反動的に享楽的な文化が花開いたというし、平常に戻った中国でも「リベンジ消費」が活発化しているという。zoom飲み会も、今は目新しいが、外出自粛が明けたら「じゃあ会おうよ」となるはずだ。
我々人間は本来、お互いに会いたくて会いたくて仕方がない生き物だと思う。
「ニューノーマル」論を論じている識者の多くは、もともと一人静かにものを考えたりするのが好きなタイプの人々なので、出てくるアイディアにはバイアスがかかっていることを忘れてはならない。
アフターコロナについて、ぼくもこれを機に都心一極集中が見直されて、外出自粛に耐えうるような広さや外的環境を持つ住環境を目指した郊外分散型のライフスタイルに移行することを望むが、これはぼくがベッドタウンで育ち、かつ両親が田舎にルーツを持つというバックグランドによるバイアスがかかっている。
「日常」とか「生活」というのは、強い。
東日本大震災でも、多くの識者が「生き方の見直し」みたいなことを言い、誰もが深く感銘を受けたが、悲しいかな今ではそんなことをすっかり忘れてみな電気がある生活を当たり前だと思っている。あのころ、漁業従事者は海の近くに居を構えているが津波が危険だから、高台に引っ越して車で職場である海に通えばいいなんて大真面目に提案されていたが、あれは実行されたのだろうか。
それほどまでに「日常」とか「生活」とかいうものは強固なのだ。
そしてその強固さに、ぼくは絶望と希望を同時に感じる。
絶望とは、感染拡大防止のためには外出自粛をまだまだ続ける必要があると頭ではわかっていても、精神的にあるいは経済的にもう持たない感じが濃厚になってきているように「ゆうてることはわかりますが、せやかてワテらこのままじゃ暮らしてけまへんねや」ということがよくわかるし仕方がないと思わざるを得ない、という意味。
そして希望とは、坂口安吾『堕落論』的な、どこまで行ってもそこには「生きている人の生活」という、手応えのあるリアルが存在してくれているという意味。
感染リスクと経済崩壊リスクのはざまで、「日常」とか「生活」から目をそらさずに、ぼくたちはうまいことやっていけるのだろうか。
いや、うまいことやっていくしかないのだろう。
1950年、敗戦の5年後に白州次郎と河上徹太郎、今日出海がこんな対談をしている。
<河上 ところで次郎さんに訊きたいけどね、これから日本ていう国はよくなるのかい。
白州 よくなるだろうと思うよ。
河上 なるかい?
白州 よくしなきゃダメじゃないの。
河上 希望的楽観はよそう。
白州 希望的楽観じゃないさ。現実にこれをよくしてゆくこと以外に手がないじゃないの。よくなるのかなんて考えるほうが、よっぽど楽観じゃないか。余計なこっちゃないか、そんなこと。だから、どうしたらよくなるか、それを工夫してゆくよりしょうがないじゃないか。
河上 こんどは非常にうまいこと言うぞ。
白州 そうじゃないさ。さっきは日本の現状が悪いんだから、そのことを認識すべきだと言ったんだ。悪い現象を認識して、どうやったら国民が幸福になるかを考えるべきなんだ。よくなるとかならんというよりも、よくするほかに途(みち)がないことを認識すべきだというんだ。〉(白州次郎『プリンシプルのない日本』新潮文庫収載
p.268-269)