「中二階の人」。
2000年代前半に、勢古浩爾がそんなことを書いている(『ぶざまな人生』洋泉社新書y 2002年 p.171-175)。
非僧非俗と自らを称した親鸞の話を皮切りに、いわゆる知識人でもなく明朗快活ないわゆる大衆でもない、あえて中途半端な位置に自分を置きたい、と勢古氏は書いた。
〈わたしは自分の位置をつぎのようにきめている。ものを考えるときは、完全に二階(「知」の世界)に上がりきらない。といって一階(「日常」の世界)べったりにもならない。その中間の中二階で考える。だが生きるのはあくまでも一階である。〉(上掲書 p.173)
勢古氏はそう書いて、洋書輸入会社に勤務しながら精力的に評論活動を行った。
この中二階の思想のことを思い出したのは、とあるお笑い芸人の深夜ラジオでの発言が炎上したのを見たからである。
二階を「知」「表現活動」とし、一階を「日常」とすると、その下に「地下一階」というのもあるなと思ったのだ。
「日常」の下の「地下一階」には、ふだんは蓋をされている「闇」が潜んでいる。
妬み僻み恨みそねみ、差別心にエロやグロやドス黒くゲスい心の蠢きが全部「地下一階」に押し込めてある。
「日常」である「一階」でそうした「地下一階」の要素を表出すれば眉をひそめられ世間から後ろ指を指される。
が、ごくまれに、そうした「地下一階」の要素を「二階」である「表現活動」として出しても批判されない者が出てくる。
批判されるどころか絶賛されたりもする。
「地下一階」を「二階」まで持っていって大成功している者として、たとえば西原理恵子氏がいる。
西原氏の「脱税できるかな」のネタとか、ほかの者がマネしたら大炎上ですよ。「恨ミシュラン」とかも、あの手法は誰もマネできないよなあ。「まあじゃんほうろうき」おもしろかったです。えぐえぐとかすねいくーとか亜空間でポンとか。
閑話休題。
今回のお笑い芸人氏の発言は相当にゲスい。擁護する気もないし、あんなん言われたらむしろ嫌悪する。
一方で、元々芸能の世界の感覚はふつうと違うし、違うからこそ人間の闇の部分、「地下一階」の邪気を表現として「二階」に昇華して地下のドス黒いマグマをガス抜きして、日常や社会という「一階」を安定させる社会的な安全装置として機能しているところもあるしなあ。
ぼく自身は、人間にそうしたドス黒い「地下一階」の部分があることそのものは否定しない。そこを否定し消し去ろうとするのは洗脳や「徹底的な自己批判と自己改革」の強制とそれに続く「社会的/精神的な粛清」だ(*)。
(*)続報を読んで、いかがなものかと思うような考えを持った人に対し、親しい人が自分の全存在をかけて考えを変えるように説得する場合もあるよなあと思い至った。今回のお笑い芸人氏の場合、相方からの説得のことです(2020年5月2日付記)。