「武器」や「道具」として言葉を使うということと他言語経験(2)

言葉を「武器」や「道具」だと認識して緻密に扱うということを論じている。
母国語の中だけで生きていると言葉は自分の肉体のように当たり前に存在するように感じられるのではないか。だから母国語世界のみに生きていると、言葉意識して学ぶとか、あるいは使い方次第でコミュニケーションがうまくいく場合といかない場合が出てくると感じにくいのではないかと思う。「大事なのは“心”。言葉はどうでもいい」とかというのは、あえて言えば生ぬるい感覚だと思う。昔から言うじゃないですか、「丸い卵も切りよで四角、ものも言いよでカドが立つ」なんてね。
 
自分の内面に生まれる感情や考えを言葉で表す場合、母国語で表現する場合にはモヤモヤした感情やアイディアが、通常はオートマティックに言語に変換されて口から飛び出す。
しかし他国語やあるいはプログラミング言語や各業界専門用語で表現しようとする場合には、いったん自分の感情やアイディアを自分の外側に出して眺め、「はてどういう言葉を当てはめたらこれが他者にうまく伝わるだろう」と意識化して言葉を探して選ぶプロセスが生まれる。
他国語や各種人工言語を学んだ人というのは、自分の内面をシームレスかつ自動的に母国語に変換する以外のプロセス、すなわち自分の内面をいったん外側に出して眺め、言葉を意識して選択するということを経験する。だから他国語を学んだ人というのは、言葉を天与のものではなく、自ら掴み取りにゆく「武器」や「道具」として意識しやすいのではないか、というのが今回の仮説である。
 
これはなにも外国語に限らない。
当代一流の「言葉」の使い手として「お笑い芸人」の方々がいるが、その中でも「言葉の達人」「ワードセンス芸人」の一人が南海キャンディーズの山里亮太氏であろう。
山里氏の、言葉を「武器」や「道具」として意識し厳選しお笑い界でサバイヴしていく感覚というのは、10代後半に関東から大阪弁世界に飛び込んで勝負してきたからこそ得られた感覚だと思う。
関東弁がポロッと出るたびに「出た、関東弁!キショ!(気色悪い)」などといじられていれば、言葉が世界に受け入れられるための「道具」であり生き抜く「武器」であると意識せざるを得ない。山里氏は大阪で生き抜くため、大阪弁のCDを買い「なんでやねん」のイントネーションをトレーニングしたという(本当。「たりない二人」で言ってた)。
 
もちろん何事もいいことばかりではない。
日本語世界で、超トップクラスの精緻な日本語の使い手として故・米原万里氏がいるが、米原氏は〈(略)「感心しましたわ、日本語が立派で!」「隅から隅まで非の打ち所のない日本語。額に入れて飾っておきたいくらい!」「きちんとした美しい日本語をお使いですね」(略)〉と褒められるたびに少しがっかりしたという(米原万里『心臓に毛が生えている理由』角川文庫 平成二十三年 p.129-130)。
褒められたのになぜがっかりしたかというと、きちんとした日本語と相手に言われるということはまだ崩せるほど日本語が身についていないということだから、というのが米原氏の認識であった。
 
母国語世界のみで生きていると言葉をのびのびと、多少崩しても自然に使える。
多国語話者にとってはそれが時に眩しく見え、自らの「きちんとした」言葉使いが堅苦しく未熟に感じられる。多国語話者には多国語話者の見えない努力とコンプレックスもあるわけで、だからぼくは幼少期からの安易なバイリンガル、マルチリンガル教育を手放しで礼賛するつもりは全くない。メリットもあればデメリットもあるものだと思っている。
 
〈清之輔  ……それでは何故(へータラナシテ)、全国統一話し言葉チューものが必要なのか。まず、兵隊に全国統一話し言葉が要るのヂャ。たとえばの話がノータ、薩摩出の隊長(テーチョー)やんが、そこに居る太吉の様な津軽出の兵隊に号令ば掛けて居るところを考えてミチョクレンカ。隊長やんが薩摩訛りで「トツッギッ(突撃)!」と号令した。太吉、今の号令、何のことか分かったかノ?〉(井上ひさし『國語元年』中公文庫 2002年 p.71-72。初出は一九八五年)
 
さて、ことのはじめは新橋の地下だった。
友人らと鴨をつつきながら、「なぜ日本の政治家は、アメリカや台湾の政治家のように人の心を動かすようなスピーチが出来ないか」という話題になった。
知的フェアネスのために書くと、近年でも小泉純一郎氏の言葉は有権者の心を動かした。方向性はともかく。
また、安倍晋三氏が真珠湾で行ったスピーチは、「死力を尽くして戦ったライバルが、時を経て友となる」という人類受けする物語を提示することによって、アメリカにおける日本の立ち位置を永遠の敗戦国から「希望の同盟」国へと書き換えた。言葉によって状況を変えた見事なスピーチで、ぼくはこれはチーム安倍晋三の偉大な功績だと個人的に思っている。
 
寄り道から戻る。
見事なスピーチを行うには、言葉を自らの生存確率を高め、周囲の人の心を動かすための「道具」や「武器」と認識し、言葉を厳選し磨き上げることが必要なのではないかと話を進めた。
そして言葉を「道具」や「武器」として認識するには、他言語や他文化との接触が有用なのではないかと考えた。
翻って考えると、日本でも過去に言葉を「武器」に論戦を闘わせる文化があった(し、今もあると信じる)。
浅学非才がバレるので例を挙げるのが憚られるが、板垣退助、斎藤隆夫、川上音次郎…言葉を「武器」「道具」として認識して戦ったし、昔は政治家の演説をレコードにしたものが全国津々浦々でこぞって聞かれた(本当。この部分、もっと文献的に強化しないといけませんね)。
 
戦後の国会でも、しばらくの間は、党議拘束などにしばられず一人一党の精神で自由に政策論争を行う「自由討議」というものがあって、当時29歳の若き田中角栄などが爪痕を残している(若宮啓文『忘れられない国会論戦』中公新書 1994年 p.214-232。国会での「自由討議」は、昭和30年にひっそりと廃止されたという)。
 
で、ここから先は「思いつき」なんですけどね、そうした明治以来から戦後しばらくの人々というのは、今は「方言」として扱われているそれぞれの地方の言葉を「母国語」として心を育み、その上で「他国語」としていわゆる「標準語」を学んだのではないか。そしてその結果、言葉を「道具」「武器」として認識し得たのではないか。
江戸時代というのは、全国諸藩からなるマルチリンガル、マルチカルチャーの世界であり、その中で生き抜いた人々というのは、まさに言葉を「道具」「武器」として捉えて磨いていったのではないだろうか。
証明のしようがないので仮説とは呼ばず「思いつき」と呼ぶが、ちょっと面白い思いつきなので書いてみた。ご意見いただければ嬉しいです。
 
あと、言葉に関心のあるかた、井上ひさしの『國語元年』は面白いのでおすすめです。

 

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