グレタ・ティンベリ氏のスピーチを批判/賞賛するときにおさえておきたいいくつかのこと。

グレタ・ティンベリ氏の話。

 

本来、非常にシンプルな話である。
ただし、いくつかのprincipleをおさえていれば、の話だが。principleのない議論は迷走しぐるぐると同じところを回り続ける。

 

principle1.いったん公開された言論のリングに上がったならば、批判も賞賛もひとまずは認めなければならない。批判に対して反論したければすればよいが、批判自体が封殺されるのはおかしい。

 

principle2.自分自身の力で選択できず不可変なことに対する悪口や中傷は、差別でありセクハラ・パワハラモラハラと同根であり、公の場で言及すべきことではない。これは賞賛も同様である。
逆に、自分自身の力で可変なことは、批判にさらされることがある。
グレタ氏の場合、ティーンエイジであること、女性であること、先進国出身であることなどをもって批判することは望ましくない。自分自身の選択ではなく不可変だからだ。
一方で、ティーンエイジであることを賞賛の根拠とすることもぼく自身は賛成しない。
「子どもなのにえらい!」という視点の根っこに、児童を軽んずる前提を感じるからだ。
公の言論のリングに上がる以上、フェアなジャッジを受けるべきだ。

 

principle3.グレタ氏がいわゆるオトナのマリオネットではないかという批判に対しては、so what?としかいいようがない。
各国政府の代表であろうと、スピーチのもととなる思想や哲学をゼロから構築し、データや統計を独力で集め、ワードのチョイスからスピーチライティングまで一人でやる人はいない。
濃淡はあれど、誰もが誰かのマリオネットと言えないこともないので、あまり意味がある話とは思えない。
グレタ氏が誰かの書いた脚本に乗っていようがいまいが、他人の関知することではない。

 

上記の上で、やはりグレタ氏のスピーチの表情、ワードのチョイス、ロジックの組み立て方、声のトーンや聴衆のエモーションの動かし方(いずれもグレタ氏が選択できる可変な部分だ)は最善とは言い難かった。
さらなる活躍を期待する。

付記:こんなことを9月28日の夕方にfacebookに書いた。
その後友人ともやりとりをして、今回グレタ氏が引き起こした摩擦というか波紋というかは、聴衆が無意識下に持つ「被害者」像や「困難に挑戦する若者」像とズレがあるから、いわゆる認知的不協和を起こしてしまったから起こったのではないかと考えた。
ステレオタイプな「被害者」像の路線でいくならば、例えば太平洋の島国の子どもが出てきて、「ぼくの国は、ぼくが大人になるまでに海に沈んでしまいます。温暖化のせいです」と泣けば国際世論にウケただろうし、「困難に挑戦する若者」像路線でいくならば、グレタ氏のスピーチの最後に「でも私たち若者はあきらめません。必ずこの困難を乗り越えてみせます。大人たちも力を貸してください」と締めればウケたと思う。
グレタ氏が今回のスピーチで、何をもって「勝ち」としているかは知らないが、国際世論を最大限味方につけるには最善手ではなかったのではないか、と思ったのだ。

と、そんなことを考えたら、29日朝にこんな解説記事が目にとまった。
すごく良い記事で、ご一読をお勧めする。
こんな良い解説記事を引き出したということで、グレタ氏の「勝ち」かも。
https://news.yahoo.co.jp/byline/emoriseita/20190928-00144493/?fbclid=IwAR2hAJF4aZQ9u8BS95_5Aj_xkmP58D3D0dPcJOKGFYdPpo_WjnirLYwMpnE

 付記2.今回のスピーチの波紋の原因は、聴衆が無意識に期待している「被害者」像が「若者」像にハマらなかったせいで認知的不協和(正しい用語の使いかたかはわからないが)がおきたせいだ、と思っているけど、そのために世界的に「爪痕」を残してこうして大人たちがあれこれ議論しているわけなんで、やっぱりグレタ氏の作戦勝ちな気もしてきました。
ステレオタイプの「被害者」「若者」像に沿ってスピーチしたならば、その場は拍手喝采でも忘れられちゃうかもしれないから。

 

付記3.あと今さら気付いたけど、「グレタ氏」じゃなくて「ティンベリ氏」ですね。「グレタさん」という表記が「子どもなのにすごい!」という視点を感じさせたので、一人前の言論者として扱う意識で「グレタ氏」と表記したが裏目に出ました。あ、でも「進次郎氏」ともいうからいいのか。クール&セクシー。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45