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「反省はしろ。後悔はするな」
世界のシューゾー松岡の言葉らしい。
過去の失敗を反省しないのはいけないけれど、クヨクヨと後悔していても仕方ないということだろう。良い言葉だと思う。
「歳なりに歳を取る」という話をしている。
反省はしていないけれどちょっとだけ後悔していることがある。若い時に若くなかったことだ。
20歳を越えるまで『ライ麦畑でつかまえて』を封印していたし、25歳を越えるまで『エヴァンゲリオン』を観ていなかった。
村上春樹を自らに解禁したのは30歳のときだったし、いわゆる自己啓発本的なものは40歳手前まで避けてきた。
いずれも引力が強そうで、自分がその世界に取り込まれそうな恐怖心があったからだ。
その結果、それらのものを「情報」として処理してしまい、「体験」と出来なかったのではないかという疑念がある。
たとえば10代や20代前半のときに『ライ麦畑』や『エヴァンゲリオン』、村上春樹の世界と触れていれば、どっぷりとその世界にはまり込むことが出来、また別の人格が形成できたのではないか。反省はしていないがちょっぴり後悔している。
しかしながら「他人と過去は変えられない」。
そのちょっぴりのほろ苦い後悔を次に活かすにはどうするか。
やはり次は、あるべき「おじさん」の姿を追求すべきではないか。
本来、自称としての「おじさん」というのは好きではない。
「おじさん」というカテゴリーに逃げ込んで、「オレもおじさんだからさー。仕方ないか」という言い訳をして自己変革を拒否し現状に安住しようとする響きを感じるからだ。
「おじさま」とでも呼ばれれば、やつはとんでもないものを盗んでいきました、あなたの心です、なんて展開もあるかもしれないが、何言ってんだ銭形。
呼び名の良し悪しはともかく、あるべき「おじさん」の姿とは何か。
〈「少年である僕がいるとする。僕は両親が押しつけてくる価値観や物の考え方に閉じこめられている。(中略)ある日ふらっとやってきて、両親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんです」と、伊丹十三は言った。
あぁ、私が、若かった頃、どれほどたくさんのおじさんがふらっとやってきて風穴をあけてくれたことか。親戚のおじさん、学校の先生、仕事場の先輩、飲み屋のマスター、旅先ですれちがったおっちゃん……。〉(金井真紀『パリのすてきなおじさん』柏書房 二〇一七年 p.2)
上掲書は、そんな風穴をあけてくれるおじさんを求めてパリの路上で片端からおじさん達の人生の物語を聞いて回った本だ。フェミニンな言いかたをすれば、prettyな本である。
たとえばこの本の中で、著者は92歳になるアルジェリア国籍のパリジャン、ムフーブ・モクヌレとこう語りあっている。
〈人生で大切なことはなんですかと質問したら、もじゃもじゃ眉毛がピクリと動いた。
「差別もテロもずーっと昔からある。これからもなくならんだろう。でもわしやあんたのような勇敢な人間もいる」
そう言ってシワシワの大きな手でわたしの肩をポンと叩いた。
「人間を好きにならなければいかん」〉(上掲書p.143)
パリのおじさんはなかなか良いことを言う。ぼくも理想の「おじさん」になるために、まずは空港で自撮りするところから始めたいと思う。
(続く)