糸井重里様。
昨日見たツイートが頭から離れず、夜中に目が冴えてしまってこれを書いています。
糸井重里は、スポーツが観られないから「ナマモノの感動が味わいたい」として、最前線で頑張ってる現場(医療、保育、インフラ)をテレビで取材せよと言ってて心底ゾッとする。矢野顕子さんもこの意見に至極同意してたのも悲しみ。
— ももらっこ momo-rakko (@momo_rakko) 2020年4月26日
「大変な現場の人」を感動を味わうエンタメとして消費したい残酷さ。 pic.twitter.com/kBNRyGt0OZ
ここのところごぶさたしてしまった「ほぼ日」なので、前後の流れもあるかもしれないし、ツイッターはなにしろ切り取りの文化なので真意を誤解しているかもしれません。
ですが、医療現場の片隅で働いている者として、2020年4月26日『今日のダーリン』で書かれている<都庁だって、病院だって保育園だってマスク工場だって、運送会社だって農園だって水道局だって…ぼくは見たい。>、なぜなら<スポーツというスポーツが中止になっていて、もともとスポーツを熱心に見ていた身としては、大きななにかが欠けてしまったような気持ちでいる。>から、というのはあんまりにもひどいと思いました。
ぼくら医療現場の人間は、感動ポルノのコンテンツではありません。「ライブな行動を禁じられ」、スポーツ中継が中止になって「のっぺりした日常」を送っていて、誰かがんばっている人に「声援を送ったり感動したり」したいテレビの前の人のために働いているのではありません。
目の前の、病気やケガに苦しみ、下手したら死ぬかもしれない人のために、ぼくら医療現場の人間は働いています。
そしてそれは、都庁や保育園やマスク工場や運送会社や農園や水道局の人たちだって同じだと思います。
みんなそれぞれ、目の前の都民や子どもたちやその親ごさん、マスクを求めているお客さんや配送を待ってるお客さん、野菜や果物を食べたい消費者、水を必要とするすべての人のために働いています。「できることなら俺だってリモートワークしたいよ」とボヤきながら、新型コロナにおびえながら。
テレビの前の人のために働いている人は一人もいないんじゃないでしょうか。
ぼくは、感動ポルノのコンテンツとして消費されることを拒否する。
現場の現実-リアル-は、リアリティ・ショウではない。
インターネット普及期から「ほぼ日」を愛読させていただいています。最近は自分の仕事が忙しくなってしまったせいでご無沙汰ですが、本や手帳も買いました。『言いまつがい』、面白かったです。
これからも時々「ほぼ日」、読ませてもらえればと思います。
ですが、今回の発言はやはり考え直していただけないでしょうか。
それぞれの現場で必死に頑張っている人の姿を、プロスポーツの中継がないから「感動して応援する」ためにテレビ局に流してほしいなんて公言するのは、やはり間違ってると思う。
セイフティ・マッチ氏なら、こんなふうに言うんじゃないでしょうか。
「ほかの人間をなにかの<手段>として見るのは間違っているよ。
人間は、ほかの誰かのための<手段>として生きてるんじゃない。
愛し愛されるための、<目的>そのものとして生きてるんだからな、人間ってやつは。」
医療現場の守秘義務とか倫理とか個人情報とか死生観とか無力さと無常観とか「でもやるんだよ」という感覚とか、すべてをわかってくださいとは言いません。
ぼくだって、広告業界のことはわからないし、飄々とした姿を見せながらもクリエイターとして日本のトップに居続けるための苦しみみたいなものをわかっているとは言えないし。
でも、ぼくは100%わかりあえなくても、なんとかヨノナカがうまくやっていく方法はあると思っています。
昔もらった言葉がいまもぼくの心には生きています。
<わかりあわなくても、たがいを大切にはできる。
-『今日のダーリン』より>(ほぼ日手帳2009 3月2日)
それではまた。