人生ゲームは過酷だ。
多くの人の人生ゲームは、前半と後半でガラッとルールが変わる。予告されることもなく。
人生の前半と後半は、ルールが全く違う。アメフトと編み物くらい違う。
ある種の人々は、人生の前半では「特別」であることを求め、あるいは求められる。
他人よりあしが速いこと、他人より面白いこと、他人より賢いこと、他人より美しいこと。何らかの形で他人より「特別」であることを自ら求め、あるいは「特別」であることを環境から求められる。
「特別」であることをがむしゃらに追い求め、気づけば人生後半戦に入る。ふとヤツらが現れる。虚無とタナトスだ。
虚無とタナトスはどこからか忍び寄り、足元に、あるいは背後に佇む。
あいつら、虚無とタナトスは、1匹いたら30匹はいると思え。
思えば虚無とタナトスがルール変更の合図なのだろう。
虚無とタナトスをしばしば見かけるようになったら、人生ゲームのルールが変わりつつあると思わなければならない。
人生ゲームの前半が「特別」を目指すゲームなら、後半戦は「幸せ」であること、「幸せ」になること、「幸せ」を維持することが人生ゲームの目的となる。
おそらく「特別」は、「幸せ」の必要条件であって十分条件ではないのだ。
いろんな「特別」があって、ほかの誰かではなくあなたやぼくに仕事が与えられる、あるいはほかの誰かではなくあなたが誰かの友人に選ばれるということもまた、「特別」の一つである。
だからなんらかの形で「特別」は追い求めなければならない。
ただ、人生ゲーム前半は「特別」を手に入れるために全エネルギーを投入してもよいけれど、後半は「幸せ」になること「幸せ」でいること「幸せ」を維持することにもエネルギーを振り分けなければならない。
そうでないと他人の人生を生きることになる。
洗脳なのか自己欺瞞なのかわからないけれど、ある種の人々は、「特別」になるためには「幸せ」になってはいけないという暗示にかかっている。 あるいは「特別」を手に入れれば「幸せ」もくっついてくると思い思わされている。
だが、「特別」になること「特別」であることの戦略と、「幸せ」になること「幸せ」であること「幸せ」を維持することの戦略はまた、まったく異なるのだ。
たぶん「幸せ」になる戦略はびっくりするほど簡単で、ポン酢しょうゆすら要らないくらいだけれど、気づけない人は気づけないままだ。
そして気づけない人は、気づけないまま「特別」であることを求めて求めてもちろんかなりの程度「特別」を手に入れて、そして最期に死の床で思うのだ。 「果たして俺の人生は幸せだったのか」、と。
そんなふうに人生を終えたくない人に、人生ゲーム後半戦のしのぎ方をまとめてみた。おそらくこれが決定版だと思う。
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*参考文献 アーサー・C・ブルックス『人生後半の戦略書』SBクリエイティブ