学校の国語というものは。

非常に興味深い話を聞きかじった。

 

学校の「国語」という教科は、「あなたが何を感じるかどう感じるか」ではなく「他人が何を感じるかどう感じるか」を問う教科だ、という見方だ。

それが正しいか否かの判断はお任せする。 ここでの「他人」というのは「世間一般の人」という意味だ。

 

たとえば国語の試験問題での笑い話で、「傍線部を書いた時の作者の気持ちを答えよ」という問題に対し、作者自身が「いやあ、特に何も考えてなかったよ。しいていえば締切と原稿料のこと考えてたかな」と苦笑いするというものがある。

冒頭の説が正しいとすると、この問題文は本当は「傍線部をもし世間一般の人が書いたとすると、どのような気持ちで書くと思うか」と読み変えられる。

 

だから(恐ろしいことに)作者自身の気持ちがどうであろうと、「社会問題の追求」とか「正義」とかが正解になる(なってしまう)。

なので、もし学校の国語の成績を伸ばしたかったら、自分の気持ちを掘り下げるのではなく(掘り下げるだけではなく、と書きたい)、世間一般の人がさまざまな状況でどんな気持ちを抱くのかじっと観察するのが早道となる。

目を自分の内面(だけ)ではなく、自分の外面に向ける練習が必要になる。

 

そういうカラクリがわかっていれば、仮に感受性ゼロの人でも、じっと外的世界を観察していけば学校の国語の成績をある程度伸ばせることになる。

ここらへん、村上沙耶香『コンビニ人間』のテーマと通底しそうな話だけれど、その話はまた別の機会に。

 

インテリが文学読むのも、江戸時代の町衆が落語聞きに行ったり浄瑠璃見に行ったりするのも、「世間一般の人というのは、どんな時に泣きどんな時に笑うのか」というケーススタディでもあるわけで。そういうことを知っていればいるほど世渡りで大はずししなくなる。

もちろん作品そのものを楽しむのが王道ですが。

 

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「国語とは、言語というツールを使って感情や情報をできるだけ正確にやりとりする術を学ぶ科目である。基本的に、テキストに書いていない情報を所与のものとして扱ってはいけない。そうした行為はコミュニケーションを狂わせる」ときちんと位置付けるといいんでしょうね。

「気持ちを大切に、素直に感じたまま」みたいなふわっとしたいいかたではなく。