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「だから」と「ように」の間(R)

「だから」と「ように」の間には、深くて暗い川がある。
誰も渡れぬ川ならば、渡れぬままにしておくのがよいだろう。

 

先日、ゾウリムシの繊毛と社会の異端について考えた。


ゾウリムシの何百とある繊毛のうち5%ほどの繊毛はてんでに勝手な動きをしていて一見非効率に見えるが、実はそうした5%の動きの繊毛は方向転換のときに役に立つ。
このように、非効率に見える異端なものも時に有用で、社会や個人においてもある程度の異端や異分子を内包するほうがよいのではないか、という趣旨である。
(元ネタは上前淳一郎「読むクスリ 15」p.132)

hirokatz.hateblo.jp

ふりかえってみると、ここには大きな落とし穴があることに気付く。
すなわち、「ゾウリムシの変わった動きをする繊毛が方向転換に役立つこと」という自然現象Aと、「社会のなかの異分子、異端が社会の方向転換に役立つこと」という社会現象Bの間には、なんら論理的な関連性が示されていないことだ。このため、A「のように」Bという論理展開は許されても、A「だから」Bという論理展開は許されないはずである。

 

すなわち、「のように」という比喩表現は、発想の幅を広げ、うまくいけば新たな着想を得ることに非常に有用である。しかしながら、なんの関連性も示されていない状態での「だから」という似非論理表現、似非因果表現というのは、読む人を惑わし、思考停止に陥らせるばかりで大変に有害である。

 

嘆かわしいことに、そうした人心を惑わすような「だから」表現はそこかしこにあふれているのが現状である。
自称動物行動学者は動物の行動をもとに人間社会の習慣を「説明」する文章を書き散らかし、自称脳科学者は「脳科学の研究成果」によって世の中の動きを「解説」する。自然現象Aと社会現象Bの間に合理的関連性が示されないままの「動物行動学的にはこう『だから』」、「脳科学的にはこう『だから』」の連発に、心の底からうんざりする。
具体的には、あいつとあいつです。

 

まったく無関係の自然現象Aと社会現象Bを気の向くままに「だから」で結びつけてしたり顔をすることが許されるのならば、
「アリやハチの社会は、一人の女王とその他大勢の働きアリや働きバチで形成される。
『だから』人間社会も一人の女王と大勢の下僕で成り立つべきだ」とか、
「カマキリのオスは交尾のあとにメスに食い殺される。
『だから』人間のオスも交尾のあとに食い殺されるべきだ」という言説が成り立つことになる。
一人の人間のオスとして、そうした社会はご免こうむりたい。

 

「自然界でリンゴの実が落ちる『ように』、人間は堕落する。義士も聖女も堕落する」という表現は美しいが、「自然界でリンゴの実が落ちる。『だから』、人間は堕落する。義士も聖女も堕落する」という表現は醜悪である。

 

任意の科学的事象を好きに使って人をまるめこもうとする専門家がいるのは残念ながら日本だけではない。
米国の物理学者アラン・ソーカルは、ラカンドゥルーズといった思想家たちが、いかにテキトーに科学用語や数式を濫用し、人を惑わせているかを強く指摘した(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』 2000年 岩波書店)。
このソーカルという人は、そうした科学の濫用によほど腹を据えかね、わざと数学・科学の誤用と濫用をしまくった思想論文をでっちあげて思想研究の雑誌に載せてしまった。人騒がせな人である。


高等数学もラカンもわからぬが、自然科学は自然科学、人文科学は人文科学なので、たとえ教養レベルであったとしても「混ぜるな危険」ということはよくわかった。
三島由紀夫もこう言っている。
 <あらゆる絵具を混和すればパレットは真黒にしか彩られない。教養とは何か真黒けなものであろうか。それならいっそ真白のほうがましではあるまいか。>(『青の時代』昭和46年 p.60)
だから混ぜるなってば。

 

まあそんなわけで、自然現象Aと社会現象Bをいい加減に「だから」でつないで何かを説明した気になっている人には近づかないほうがよい。動物界には「だから」を振り回す動物は皆無だし、脳の中枢である脳幹には「だから」を連発する機能はついていないのだから。
(FB2013年5月30日を再掲)

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