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対話について(R改)

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日本の学びの場ー授業や講演、会議などーには、対話が足りないのではないかということについて以前より考えている。
考えてばかりでは前に進まないので、ここでいったん書いてみる。
だいたいこんな感じで論を進めていきたい。

1.足りない、対話。 (現状認識)
2.対話不足のわけー「門下」と「学派」 (背景と理由分析)
3.「唇寒し」から「唇愉し」へ  (対策編)

ちなみに、1.の正式な表記は

1.


ない、対話。

である。
エヴァか。

 

さて、日本の(といってもほかの国のことはよく知らないが)授業や講演、会議などに出ると、発表・発言に対し、積極的な質問や問題提起、議論が起こらず、大変もの足りない思いをすることがある。
発表者は淡々と発表をこなし、聴衆は無表情でそれをメモにとる。
発表が終わり、司会者の「ご質問は」の声にも空しく、会場は静まりかえる。
質問の手があがって指名されるも、質問者の口からは「ご発表ありがとうございました。大変勉強になりました。今後の研究の進展をお祈りしています」といった情報量にすれば数bitの感想ばかり。

 

そうかと思うと、質問にみせかけて「私の経験では」と長々と続く持論の披露であったりして、最後のほうになると質問者ですら発表とどんな関係があったのかわからなくなってしまう大暴投だったりする。

会議室では今日もまた、意見とも感想ともつかないようなオチもヤマもないような感情の垂れ流しのような独白が無制限に続き、毎日毎日日本全国で総計何百時間が無駄になっている。

 

問題はなにか。対話の不在だ。

そんなことはない、街なかや会社中で、うるさいばかりに会話はあふれているというかもしれない。しかし、対話と会話は違う。

哲学者の中島義道は、対話とは会話とは異なるものだという。
「<対話>とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである」(中島義道 『<対話>のない社会 思いやりと優しさが圧殺するもの』 PHP新書 1997年 p.102)と述べ、「(略)この国では対話がほぼ完全に死滅している(略)」(同書 p.100)とまで言う。

 

ものごとは多面的で、発言者の人格をかけた対話をいちいちしないことは集団内での対立を防ぎ、集団に所属するメンバーに生あたたかい居心地のよさを提供する。
精神科医の大平健は『やさしさの精神病理』(岩波新書1995年)の
中で日本社会の「言葉のいらない親密さ」に「ヤサシサ」を感じたアメリカ人女性が、久々に会ったアメリカ人の母親に機関銃のように自分の意見を求められることに疲れてしまう姿を描いている(上掲書 第5章「沈黙のぬくもり」)。

 

ぼく自身は日本社会の一員として、そうした言葉のいらない「沈黙のぬくもり」というものにシンパシーを感じるところもあるのだが(中島義道は大平健の同書を<読むほどに背筋が寒くなる>と評している。『<対話>のない社会』p.161)、個人的な感情はさておき、対話というものは学びや発見において必要不可欠なものであることは改めて確認しておきたい。

 

学びや発見とはなんだろうか。

昨日まで持っていた知識や考えに新たな一ページが追加されることであり、場合によっては自分の考えの大部分ががらっと書き換えられることである。
そのためには何が必要か。
今までの延長線ではない出来事との出会い、自分と異なる存在との衝突だ。
今まで当たり前だと思っていたことが本当に当たり前ではないのではないかと問うこと、それこそが学びや発見のスタートである。

 

強靱な精神の持ち主であれば、当たり前だと思うことを棚卸しして一から検証し直し、たった一人で真理を深めることもできるかもしれない。
だが、現世に生きる我々現代人は、孤独と孤高の中で「(略)明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと(略)、注意深く速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと(略)」(デカルト方法序説岩波文庫 1997年 p.28)という精神的態度を貫き通すのは難しい。
だからこそ他者からの有効な問いが、真理に到達するために有用になってくるのである。

 

学ぼう、なにか真理を見つけだそうという者は多くの場合、きちんとした問いが得られれば己の考えを深めることができるのだ。

<「一つの見事な証明というのはね」とケベースが答えました。「人間は質問されることによって、もしその質問が上手にされさえすれば、ものごとがどうなっているかを自分ですべて説明することができる、ということだ。(略)」>(プラトーン『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』新潮社 昭和43年 p.138)

上手にされる質問とそれに対する真摯な答え、無限に繰り返されるその営みこそが対話であり、それこそが日本の会議室や学会現場、研究発表などに足りないものなのではないだろうか。

 

ここまで書いてきて、論ずべきもののターゲットが不明確であることや、言葉の定義がなされていないことなど穴だらけであることは承知だが、めげることなくしばし考えを進めていきたい。
(続く。FB2014年1月23日を加筆再掲)

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