対話について・2(R改)

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日本の学びの場には対話が足りない、というテーマについて先日より考え中。

 

中島義道『<対話>のない社会』(PHP新書)をタネ本に、
1.現状認識→2.背景と理由分析→3.対策編
と進んでいきたい。今のところ1の真ん中らへんまできたところ。

 

議論をする際言葉の定義ってとても大事で、対話の定義をしないと考えが発散したり、同じところで議論が堂々めぐりしたりしてしまう。今回の話では対話とはなんぞや、という定義を自分なりにきっちりしないといけない。

 

日本には対話が足りないというと、何言ってるんだ会話ならそこらじゅうにあふれているじゃないかと反論されたり、最近では学校とかでもディベートとか結構やってますよ、と言われたりするんじゃないかと思う。
対話と会話、ディベートはどう異なるのかということを定義しないといけない。

 

平田オリザは『対話のレッスン』(小学館 2001年)の中で、中島の本を踏まえながら対話とは<(略)自分の価値観と、相手の価値観をすり合わせることによって、新しい第三の価値観とでも呼ぶべきものを創り上げることを目標としている>(p.155)と言い、<だから、対話においては、自分の価値観が変わっていくことを潔しとし、さらにはその変化に喜びさえも見いだせなければならない>(同頁)と続けている。
対話と会話とディベートの違いは、座る場所の差かもしれない。

 

話し相手と喫茶店に入るとする。
窓際の四角いテーブルに案内され、横並びに座って行うのが会話。
真向い、対面に座って行うのがディベート
それに比べ、対話は90度の角度で座って行うイメージだ。

 

横並びに座って窓の外を二人で眺め、道行く人についてああだこうだ好き勝手言って、相手の話した言葉から浮かんだ連想を言葉にして紡いでいくのが会話。そこでは相手の言っていることを真正面から受け止めなくてもいいし、ネタに困ればしばらく黙って窓の外を見ていればいい。

対面に座り、視野の中には相手しかいない勝つか負けるかの言葉のボクシングのディベートでは、相手から目をそらしたら負け。アメフトのように陣地を取り合うディベートでは、到達点は自分と相手の間の、四角いテーブルの上のどこかにしかない。押して押して押しまくって、相手に自分の言い分を認めさせ、テーブルの上の陣地をすべて奪い取ることがディベートの目的となる。
ディべートで競われるのは言い負かす技術の巧拙なので、ディベート競技ではテーマに関する立ち位置=プロ(賛成)とコン(反対)は自分の信念や思想信条と別個に割り振られる。

 

対話はそれに比べ、角をはさんで90度に座る。
時に窓の外に目をやり、時には相手を見つめて話を進めていく。到達点のない会話でもなく、相手と自分の言い分との間の妥協点を探るでもなく、前向きに、外に向かって新たな到達点をともに模索していくのが対話だ。
対話の望ましいパートナーは、会話の場合に安心してできる同じ価値観の持ち主でもなく、ディベートの相手である真逆の意見の者でもなく、異なった視点・違った角度からモノを見られるような人物ということになる。
会話の相槌は「わかる!」という共感と同調のメッセージであり、ディベートでのコメントは「それは違う」という異議申し立てだが、対話でもっとも頻用されるべきは「面白い!」という相手へのリスペクトを伴った感嘆詞なのだ。
(FB2014年1月25日を加筆再掲。続く)

 

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