現代ビジネス記事『政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている』に想う~愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ(R)

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先日、上記記事を読んで思い出した文章があるので下に引用してみる。

<まず企業側は学校教育の非能率を難じた。教師側も決してうまく行っているとは思っていなかったから、さっそく恐縮、改善しましょうとお人好しにもこれに応じた。
 調子に乗った実業界は、学校はもっと役に立つことをやれ、と注文をつけた。まっさきに槍玉に上がったのが、英語教育。読めるだけの語学ではしかたがない。会話ができて、手紙の書ける教育をしろと文句を言った。学校を出たらすぐ使いものになる学生をつくれ、というわけだ。
 虫のいい考えである。役に立たせたかったら、会社へ入れてから訓練するのが筋であろう。そんな手間はかけていられない。われわれの税金でやっている学校教育だ。もっとわれわれの都合を考えてくれてもいい、というのだろう。
 公私を混同した教育観だが、ほとんど批判を受けることなく天下を風靡した。(略)
 自分のプライベートな利益のために、パブリックなものを利用しようとする考えは、いついかなるときも、卑劣である。
(略)
 現在の学校教育が荒廃していないという人はすくないだろう。どうして、こんなことになったのか。企業と教育ママの身勝手、自分あって他あることを知らぬエゴイズムをふりまわした結果、学校が公教育の場であることをだんだんやめようとしているからである。
 役に立つ教育といったケチな目標でなされることが、子供の魂に火をつけるわけがない。さきの英語教育にしても、役に立つ英語のスローガンが広まるに反比例して、学習意欲は低下した。いまでは「英語などなぜやるのか」と、うそぶいてはばからない高校生がわんさといる。>
外山滋比古『ライフワークの思想』ちくま文庫 2009年 p.175-176)

 
 教育の話というのはしょっちゅう議論になる。
ほぼ100%の人が生徒として教えを受ける立場を十年以上経験しているので、誰しもが教育の「経験者」であり、何らかの考えを持っている。
「私の経験では学校はこうあるべき」とか「ぼくの経験からすると今の教育は間違っている」とかという議論が、エラい人たち(有識者という奴ですね)の間で戦わされ、その都度ニュースになっていく。

 

実は、教育問題について云々したくて冒頭の文を引用したのではない。
面白いことに、上掲書の初出は1978年で、この外山滋比古の上のエッセイ『教育の女性化』は1970年代後半に発表されたものなのである。しかも冒頭の文章の直前には<昭和三十年ごろから財界の教育容喙は露骨になった。>と書いてある。
だから、エッセイの中で書かれている「学校はもっと役に立つことをやれ!」と財界が言ったというのは昭和30年ころの話なのだ。

 

教育問題の有識者会議で「実社会で役に立つ英語教育に変えていくべき」なんて話が今をときめく経営者から出たりするが、なんということはない、ずーーーっと昔っからそんな話をしているわけだ。
これを「変わらない教育現場」の問題と見るのか「繰り返される公教育への不当な干渉」の問題と見るのかはそれぞれの立場に応じて好きにすればよい。
ただ、一つだけ言いたいのは、どんな議論をするときもなにかプランを立てるときも、その問題の歴史的経緯をさらっとでもいいから振り返ってみてから論じたりプランを立てるべきだということである。
自分の経験だけでものを言ってはいけない
 古人曰く、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。

 

会議でもいますよね、「私の経験では」なんていって結論なしにずーーっと自説・持論を展開している人。
もっとも、そうした発言を垂れ流す人にどう対処すべきかは、経験も歴史もなにも教えてくれないが。
(FB 2015年4月12日を再掲)

 

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