H先生のバスツアー(R)

「今度ね、バスツアーをやろうと思うんだよね」
H先生がそう言ったとき、正直言ってぼくはよく意味がわからなかった。
次の訪問診療先に向かう車の中での会話である。

 

「だってさ、カレンダーに書いてある予定が、訪問診療でお医者さんが来ることだけだったらつまらないでしょう。だからね、車椅子も乗れるバスを借り切ってさ、ぼくらが訪問診療している患者さんたちを温泉に連れて行こうと思ってね。
楽しそうでしょう」
H先生がさらっと言った。

 

医療とは何か一言で答えよと問われたら、ぼくは「医療とは生老病死の伴走者」と答えるようにしている。
人間が生きていく上での悩みの種である生老病死。
医学が素晴らしく進歩して、本当にいろいろなことが出来るようになったけれど、サイエンスとしての医学を基礎とした社会的行為である医療は、当たり前だけど決して万能ではない。人間の生涯死亡率は今も変わらず100%だし、いきなり他人の血管に針を刺して血液を抜き、生きたまま胸や腹を切り裂いて内臓をいじったりするという医療行為は、考えようによっては自然の摂理に反した大変に乱暴な話なのかもしれない。
医療は今もなお、「時に治し、しばしば癒し、常に寄り添う」ことしかできないのかもしれないけれど、生老病死に伴走することで医療はその人のLIFE=生命、いのち、暮らしを高めてゆくことが出来る(と思う、たぶん)。
学問としての医学は、出来ることならなんでもやっちゃう、行くところまで行っちゃうようなおっかいない性質を内包してますが。

 

結局バスツアーはどうだったんですか。
冒頭の会話から数年経ち、先日H先生にお会いした際に聞いてみた。
「面白かったよ。
車椅子でいつも娘さんに介護されている女性の患者さんが、娘さんとツアーに参加してね。いつもは介護される側、面倒みてもらう側の患者さんが、バスの中や宿では甲斐甲斐しくまわりの人や娘さんの世話を始めちゃってね。
面倒みる側とみられる側が逆転しちゃったりね。
うん、あれは面白かったな」
H先生は気負うことなくそういうと、ちょっとぬるくなったビールを一口飲んだ。

(FB2014年5月23日を再掲)