原作と実写の幸せな出会いと別れ~『納棺夫日記』と『おくりびと』
「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本」であり「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間」だというお話。
男前で有名なKさんが語ってくれた話。
「女の子にね、『お前の付き合ってる男はサイテーだから俺と付き合え』って言って付き合ってもらえるか?
肘鉄くらって、『確かにわたしの付き合ってる男は上等ではないかもしれないけど、わたしの勝手じゃない。そんなことあんたに言われる筋合いじゃないわよ』って振られるのがオチだよな」。
あるとき、男前で大変有名なKさんが言った。
あいかわらずの迫力である。
「だからさ、ほんとに女の子にふりむいて欲しかったら、そうじゃなくて『俺と付き合えばこんな未来がある。俺はあなたとこんな明るい未来をつくりたいんだ。だから付き合ってくれ』と口説かなきゃならない。
それなのに、『お前が付き合っている男はサイテーだ、俺にしろ』ってばっかり言う奴が多いんだよな、選挙でも」
?。選挙ですか?
僕が聞き返す。
「なんだよ、まだわからねえのかよ。しようがねえなあ。
ほらあれだよ、『○○党はこんなにダメだ、だから我が××党へ投票してください』ってやる奴多いだろう。
そうじゃなくて、『わが××党は、国民のみなさんとの未来をこんなふうに考えている。だから我が××党へ投票してください』ってやらなきゃダメだってことだよ。な?」
Kさんはそういうとカフェラテを一口飲んで、うまそうに煙草をくゆらせた。
Kさんもまた、旅立ってしまった。
ネットの狂気とシュクメルリ。
純度の高いヤツは危険だ。
普通の人間は、純度の高いヤツとずっと付き合えるほど強くはないのだろう。
インターネット文化黎明期には、かなりの感動があった。
匿名や仮名にハンドルネーム、実生活での年齢や性別や肩書きや社会的役割から解き放たれ、ネットコミュニティ参加者は何者でもなれたし、何者かである必要もなかった。
多くの者は実生活の顔を仮面に隠して情報交換したわむれ喧嘩した。夜の11時の鐘ならぬピーヒョロロ音とともに始まるオンライン仮面舞踏会や仮面武闘会。
実生活や肉体性の制限という夾雑物が取り除かれ、そこでは純度の高い情報がやり取りされた。
純度の高い情報、純度の高いギャグ、純度の高い善意。 そして、純度の高い偏見や差別や侮蔑や憎悪に悪意。
実生活の中で生きていれば、「ムカつくヤツだけど一緒に仕事くらいならできる」「キラいなヤツだけど表面上は仲良くはできる」みたいな局面はある。たくさんある。
しかしネット文化はそんな局面の、「一緒に仕事くらいならできる」「表面上は仲良くできる」という部分をバッサリ切り落とし、「ムカつくヤツ」「キラいなヤツ」の部分の純度を高め、流通させ、無限に増殖させてしまう。
かつて人類には、「ネットで中傷されたら回線抜いて3日間寝てろ。そのあいだにみんなおまえのことなんか忘れる」という知恵があった。
しかしそんな知恵はもう消え失せてしまった。回線抜こうにもWifiでどこへ行っても常時接続の時代だ。人は、常時接続で純度の高い偏見や差別や憎悪にさらされ続ける。
こうした趨勢はおそらく変わらないだろう。
ネットの情報のやり取りの速度はますます加速し、憎悪や侮蔑の純度はさらに高まってゆく。
自衛手段はおそらく身体性なのだろう。 身体を持つ以上、疲れるし眠くなるし腹も減る。
疲労や眠気や空腹といった夾雑物こそが、我らをネットの狂気から救ってくれる。
思えば「飯テロ」の投稿などは、そうした高純度のネット世界から肉体を引き戻そうとする無意識の抵抗運動なのかもしれない。
純度の高いネットの狂気から身を守るため、時期がきたらいの一番に松屋のシュクメルリを食べることにしようと思う。
それじゃまた。
「人間は一生のうちに7~8回家電を買い替える」というお話。
「無責任なアドバイス」の話。
〈無責任なアドバイスこそ聞くに値する〉
(by 東京都・自営業 61才男性。『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』鉄人文庫 p40)
最近の人はみんないい人だから(大雑把)、無責任なアドバイスというのはしない傾向にある(当社調べ)。
相手をおもんばかりこんなことを言ったらどう思われるかを瞬時に計算し、前後の話と矛盾がないか論理的一貫性はどうか実現可能性はあるか維持可能性はどうかなどなどを必死で計算して繰り上がり繰り下がり切り捨て切り上げ四捨五入してアドバイスするから、結果として小ぶりでしごく当たり前のアドバイスしかできない。
しかしながら背中を押されたりああそうなのかと天啓のごときひらめきを聞いた者に与えるのはいつだって「無責任なアドバイス」だ。
そうした「無責任なアドバイス」が与えられるのは多くの場合酔いどれ達がたむろしはじめる夕暮れの酒場だったりするけれど、コロナが流行ってからこっちなかなかそういう酒場も行きづらかったり羽目を外しにくかったりして、「無責任なアドバイス」も触れにくくなってしまった。
酒場の「無責任なアドバイス」業界のトップクラスの1人はマンガ『たそがれたかこ』の美馬さん。この人は〈蜘蛛は網張る 私は私を肯定する〉(山頭火)みたいな人で、こういう言った本人もすぐ忘れちゃうくらいのいい加減な人の言葉のパンチラインの中に現実を解決するライムが潜んでたりする。
たぶんみんな、もっと「無責任なアドバイス」を生み出したり聞き流したりしたほうがよいのだ。まあその結果どうなろうと責任は持てないが。
愚にもつかないアドバイスのことを「クソなアドバイス=クソバイス」というそうだが、「無責任なアドバイス」と「クソバイス」は似て非なるものだ。 どう違うかというと、強制性の有無にある。
「無責任なアドバイス」は言ったほうもすぐ忘れる。なにしろ無責任だから。 しかし「クソバイス」のほうは、クソバイスしたほうはしつこく覚えていやがる。「俺がこの間アドバイスしたあの件どうなった?」とか。うるせえ。
要は、「クソバイス」がクソなのはアドバイスの内容ではなく押し付けがましさゆえなのだろう。
まあそんなわけでみんなもっと「無責任なアドバイス」をしたほうがよい。そのかわり瞬時にアドバイスしたことを忘れるべきだ。
言われたほうも「無責任なアドバイス」を真に受けず、心に刺さったもの以外はぜんぶ「無責任やな笑」と受け流す。
それでこそ「無責任なアドバイス」が光り輝くのだ。
ちなみにぼくが受けた「無責任なアドバイス」ナンバーワンは、国境問題でひところ話題になった島の話を雑談でしてるときにH先生に言われた、
「あなた医者だろ?だったらあの島に診療所建てて住め。他国があの島に攻めてきてあなたがやられたら、邦人保護ってことで自衛隊も動けるから」
です。やだよおっかない。