SNSのコツは「ポジティブなことはピンポイントで、ネガティブなことはふわっと書く」

警官とさよならを言う方法はまだ発明されていないしSNSとうまく付き合う方法もまだ人類は見つけていないが、もしかしたら「ポジティブなことはピンポイントで、ネガティブなことはふわっと」書くのがコツなのではと思い始めた。
 
「生きとし生けるもの全てに感謝!」みたいなことより「毎朝あいさつしてくれる近所のおばあちゃんにマジKANSHA」って書いたほうがウケる気がするし、「仕事で会う誰々がムカつく」みたいなことを書くよりは「仕事上の人間関係は難しい…」と書いたほうが共感を生む。
 
だから何かイヤなことがあったらふわっと「みんな人類が生まれたのが悪い。類人猿が樹から降りたのが間違いだったし、古代の魚も地上に上がってこなきゃよかった」と書くくらいがよいのではないだろうか。

原作と実写の幸せな出会いと別れ~『納棺夫日記』と『おくりびと』

「富山のね、指定されたお店に少し遅れて行ってね、お店の人に案内された部屋のふすまを開けたら、畳の上にスッと背筋を伸ばした青年が正座していた。
青年は深々とお辞儀をすると『先生、お忙しい中おいでいただきまして、ありがとうございます』と言った。
それが本木雅弘さんだったんだよね」
 
原作と実写の、幸せな出会いと別れと言えば『納棺夫日記』と『おくりびと』だろう。
 冒頭の話は、『納棺夫日記』作者の青木新門氏の講演で聞いた話だ。ずいぶん前の講演の記憶なので、間違えていたら直す。
講演は東大で行われた死生学講座の一環だった。
キリスト教のホスピス、浄土宗の僧侶たちの勉強会、終末期医療の現場など、あの頃はあちこちに出かけていって話を聞いた。
日本の医療のあるべき姿を考えるには、制度の下にある日本の死生観を知らなければならないと思ったからだ。
 
本木雅弘氏は『おくりびと』についてこう言っている。
〈もともと、この『おくりびと』は、20代の頃に元納棺師の詩人、青木新門さんの書かれた『納棺夫日記』を読み、生と死について考えたことをきっかけに生まれました。
で、まずはそれ以前、私は写真家の藤原新也さんの『メメント・モリ』を読んで強い影響を受け、生と死の淵を覗きたくてインドを旅したことがあったのです。〉(『本木雅弘×真鍋大度 仕事の極意』株式会社KADOKAWA 2016年 p.34)
〈私たちの普段の生活では、死はタブーとして人々の目から隠され、生だけが強調されています。でも藤原新也さんが「本当の死が見えないと、本当の生が生きられない」と書かれていたように、生と死は本来、同じ土台の上に乗っているもので、その狭間に思いを馳せることは、人の営みにとって案外重要なことだと思ったのです。
そのことをインドで実感した私は、帰国した後、知人から薦められた『納棺夫日記』を一気に読み、さまざまなカタチで命の宇宙がつながっていく驚きと納得と感慨を抱いたのです。その後、青木さんとは何度かお話を伺う機会もできました。〉
(前掲書p.35-36)
 
映画『おくりびと』のクレジットには青木新門氏の名前はない。
これは宗教や永遠について書かれた『納棺夫日記』第3章「ひかりといのち」の部分が映画では触れられておらず、〈職業としての「納棺夫」の側面しか伝えきれていない(略)〉と青木氏が感じてクレジットを外してもらったのだという(新潮45eBooklet 教養編9 「『おくりびと』と『納棺夫日記』 世界が日本の死を理解した日」kindle版73/155)。
 
にもかかわらず、青木氏と『おくりびと』製作陣とは長年にわたり互いをリスペクトし続け、折に触れて青木新門氏は『おくりびと』について、本木氏や製作陣は青木新門氏や『納棺夫日記』について愛情を込めて言及している。
こういった形の、幸せな原作と実写の出会いと別れもあるのだろう。

 

 

「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本」であり「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間」だというお話。

「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本」であり、「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間」だ、という(小泉信三『読書論』岩波新書kindle版 第一章。後者の言葉は工学博士谷村豊太郎氏のものとのこと)。
 
なんでもかんでも「すぐ役立つ知識」「すぐ役立つ人材」を求めてしまう昨今だが、小泉信三氏が正しければ、そうしたものや人はすぐ役に立たなくなってしまう。
本や人材が必要となる特殊な局面や環境ががらっと変われば、あっという間に役に立たなくなってしまうということだろう。
 
実際問題として「すぐ役立つ知識」を身につけ「すぐ役立つ人材」にならなければ世を渡っていけない。
だが、心の一方で「すぐ役立つ知識はすぐ役に立たなくなる、のではないか」「すぐ役立つ人材はすぐに役に立たなくなる、かもしれない」と思っておくのは重要かもしれない。
 
友人Aから薦められた『一神教と帝国』(内田樹・中田考・山本直輝著。集英社新書)に面白いことが書いてあった。
若きムスリムの間では、日本マンガが深く愛されているとのことだ。彼らはマンガを読むうちに、マンガで日本語すら覚えるという。
トルコの大学で教鞭をとっている山本氏は、イベントでいきなり「うまくやっているようだな」とトルコ人学生に日本語で話しかけられたとのことで、これは『NARUTO』のセリフだという(前掲書p.53)。
 
マンガという、かつて「役に立たない」代表とされたもので今では異文化コミュニケーションが取れる。
「すぐ役に立つものはすぐ役に立たなくなる、かもしれない」と思いつつ、「すぐ役に立たないものも、あとで役に立つ、かもしれない」と思って何事にも接するべきだろう。
もっとも、すぐ役に立たない知識だからといってあとで必ず役に立つとはまったく限らないわけではあるが。

 

 

男前で有名なKさんが語ってくれた話。

「女の子にね、『お前の付き合ってる男はサイテーだから俺と付き合え』って言って付き合ってもらえるか?
肘鉄くらって、『確かにわたしの付き合ってる男は上等ではないかもしれないけど、わたしの勝手じゃない。そんなことあんたに言われる筋合いじゃないわよ』って振られるのがオチだよな」。
あるとき、男前で大変有名なKさんが言った。
あいかわらずの迫力である。

 

「だからさ、ほんとに女の子にふりむいて欲しかったら、そうじゃなくて『俺と付き合えばこんな未来がある。俺はあなたとこんな明るい未来をつくりたいんだ。だから付き合ってくれ』と口説かなきゃならない。
それなのに、『お前が付き合っている男はサイテーだ、俺にしろ』ってばっかり言う奴が多いんだよな、選挙でも」
?。選挙ですか?
僕が聞き返す。

 

「なんだよ、まだわからねえのかよ。しようがねえなあ。
ほらあれだよ、『○○党はこんなにダメだ、だから我が××党へ投票してください』ってやる奴多いだろう。
そうじゃなくて、『わが××党は、国民のみなさんとの未来をこんなふうに考えている。だから我が××党へ投票してください』ってやらなきゃダメだってことだよ。な?」
Kさんはそういうとカフェラテを一口飲んで、うまそうに煙草をくゆらせた。
Kさんもまた、旅立ってしまった。

 

 

ネットの狂気とシュクメルリ。

純度の高いヤツは危険だ。

普通の人間は、純度の高いヤツとずっと付き合えるほど強くはないのだろう。

 

インターネット文化黎明期には、かなりの感動があった。

匿名や仮名にハンドルネーム、実生活での年齢や性別や肩書きや社会的役割から解き放たれ、ネットコミュニティ参加者は何者でもなれたし、何者かである必要もなかった。

多くの者は実生活の顔を仮面に隠して情報交換したわむれ喧嘩した。夜の11時の鐘ならぬピーヒョロロ音とともに始まるオンライン仮面舞踏会や仮面武闘会。

実生活や肉体性の制限という夾雑物が取り除かれ、そこでは純度の高い情報がやり取りされた。

純度の高い情報、純度の高いギャグ、純度の高い善意。 そして、純度の高い偏見や差別や侮蔑や憎悪に悪意。

 

実生活の中で生きていれば、「ムカつくヤツだけど一緒に仕事くらいならできる」「キラいなヤツだけど表面上は仲良くはできる」みたいな局面はある。たくさんある。

しかしネット文化はそんな局面の、「一緒に仕事くらいならできる」「表面上は仲良くできる」という部分をバッサリ切り落とし、「ムカつくヤツ」「キラいなヤツ」の部分の純度を高め、流通させ、無限に増殖させてしまう。

かつて人類には、「ネットで中傷されたら回線抜いて3日間寝てろ。そのあいだにみんなおまえのことなんか忘れる」という知恵があった。

しかしそんな知恵はもう消え失せてしまった。回線抜こうにもWifiでどこへ行っても常時接続の時代だ。人は、常時接続で純度の高い偏見や差別や憎悪にさらされ続ける。

 

こうした趨勢はおそらく変わらないだろう。

ネットの情報のやり取りの速度はますます加速し、憎悪や侮蔑の純度はさらに高まってゆく。

 

自衛手段はおそらく身体性なのだろう。 身体を持つ以上、疲れるし眠くなるし腹も減る。

疲労や眠気や空腹といった夾雑物こそが、我らをネットの狂気から救ってくれる。

思えば「飯テロ」の投稿などは、そうした高純度のネット世界から肉体を引き戻そうとする無意識の抵抗運動なのかもしれない。

 

純度の高いネットの狂気から身を守るため、時期がきたらいの一番に松屋のシュクメルリを食べることにしようと思う。

それじゃまた。

 

 

「人間は一生のうちに7~8回家電を買い替える」というお話。

「人間はね、一生の間に7〜8回、家電を買い替えます。前半の3〜4回は安売り量販店で買うかもしれない。我々のお客様は、後半の4回の買い替えの方々です」
昔、いわゆる“街の電器屋さん”で働かせてもらったことがある(本当)。冒頭のセリフは、そのレクチャーの時に聞いた話だ。
 
ナントカ電気とかナントカ電器とか、これだけ家電量販店チェーンがたくさんあると“街の電器屋さん”も大変じゃないですかなんて質問に返ってきた答えが「我々のお客様は後半4回のかた」だった。
 
家電の寿命がざっくり10年(ものによるが)だとして、人生80年を10年でわると8回。人生で電器買い替え7〜8回というのもわかるような。
確かに若いうちは「1円でも安く!」と電器街や家電量販店を駆けずり回り、ネットのサイトをはしごしたりする。
しかし歳を重ねるごとにそのエネルギーは無くなってゆく。仕事とかもあるし。
かわりに頭の中を占めてゆくのが、「どーでもええわー」のお気持ちである。
 
「選ぶのもしんどいし、馴染みの◯◯さんのお店で見繕ってもらうか」というお客様の役に立とうというのが“街の電器屋さん”なのであろう。
もちろんそういう気持ちにつけ込んで“勇み足”のようなことをするのは商人道に反するわけだが。
 
ツラツラとそんなことを書いたのは、もうかれこれ1ヶ月ばかり、「CDプレーヤー欲しいなあ」と悩み続けているからです。
ネットで見れば数千円でキッチュでガジェットな中華プレーヤーもあるしそんなんパッと買ってしまえばよいのだけれど、安いの買ってすぐ壊れてもやだし、残念ながら人生の「後半4回の買い替え」時期に入っているので変なの買って後悔するのもイヤだしなあ…。

 

 

「無責任なアドバイス」の話。

〈無責任なアドバイスこそ聞くに値する〉

(by 東京都・自営業 61才男性。『他人が幸せに見えたら深夜の松屋で牛丼を食え』鉄人文庫 p40)

 

最近の人はみんないい人だから(大雑把)、無責任なアドバイスというのはしない傾向にある(当社調べ)。

相手をおもんばかりこんなことを言ったらどう思われるかを瞬時に計算し、前後の話と矛盾がないか論理的一貫性はどうか実現可能性はあるか維持可能性はどうかなどなどを必死で計算して繰り上がり繰り下がり切り捨て切り上げ四捨五入してアドバイスするから、結果として小ぶりでしごく当たり前のアドバイスしかできない。

 

しかしながら背中を押されたりああそうなのかと天啓のごときひらめきを聞いた者に与えるのはいつだって「無責任なアドバイス」だ。

そうした「無責任なアドバイス」が与えられるのは多くの場合酔いどれ達がたむろしはじめる夕暮れの酒場だったりするけれど、コロナが流行ってからこっちなかなかそういう酒場も行きづらかったり羽目を外しにくかったりして、「無責任なアドバイス」も触れにくくなってしまった。

 

酒場の「無責任なアドバイス」業界のトップクラスの1人はマンガ『たそがれたかこ』の美馬さん。この人は〈蜘蛛は網張る 私は私を肯定する〉(山頭火)みたいな人で、こういう言った本人もすぐ忘れちゃうくらいのいい加減な人の言葉のパンチラインの中に現実を解決するライムが潜んでたりする。

たぶんみんな、もっと「無責任なアドバイス」を生み出したり聞き流したりしたほうがよいのだ。まあその結果どうなろうと責任は持てないが。

 

愚にもつかないアドバイスのことを「クソなアドバイス=クソバイス」というそうだが、「無責任なアドバイス」と「クソバイス」は似て非なるものだ。 どう違うかというと、強制性の有無にある。

「無責任なアドバイス」は言ったほうもすぐ忘れる。なにしろ無責任だから。 しかし「クソバイス」のほうは、クソバイスしたほうはしつこく覚えていやがる。「俺がこの間アドバイスしたあの件どうなった?」とか。うるせえ。

要は、「クソバイス」がクソなのはアドバイスの内容ではなく押し付けがましさゆえなのだろう。

 

まあそんなわけでみんなもっと「無責任なアドバイス」をしたほうがよい。そのかわり瞬時にアドバイスしたことを忘れるべきだ。

言われたほうも「無責任なアドバイス」を真に受けず、心に刺さったもの以外はぜんぶ「無責任やな笑」と受け流す。

それでこそ「無責任なアドバイス」が光り輝くのだ。

 

ちなみにぼくが受けた「無責任なアドバイス」ナンバーワンは、国境問題でひところ話題になった島の話を雑談でしてるときにH先生に言われた、

「あなた医者だろ?だったらあの島に診療所建てて住め。他国があの島に攻めてきてあなたがやられたら、邦人保護ってことで自衛隊も動けるから」

です。やだよおっかない。