ネットの狂気とシュクメルリ。

純度の高いヤツは危険だ。

普通の人間は、純度の高いヤツとずっと付き合えるほど強くはないのだろう。

 

インターネット文化黎明期には、かなりの感動があった。

匿名や仮名にハンドルネーム、実生活での年齢や性別や肩書きや社会的役割から解き放たれ、ネットコミュニティ参加者は何者でもなれたし、何者かである必要もなかった。

多くの者は実生活の顔を仮面に隠して情報交換したわむれ喧嘩した。夜の11時の鐘ならぬピーヒョロロ音とともに始まるオンライン仮面舞踏会や仮面武闘会。

実生活や肉体性の制限という夾雑物が取り除かれ、そこでは純度の高い情報がやり取りされた。

純度の高い情報、純度の高いギャグ、純度の高い善意。 そして、純度の高い偏見や差別や侮蔑や憎悪に悪意。

 

実生活の中で生きていれば、「ムカつくヤツだけど一緒に仕事くらいならできる」「キラいなヤツだけど表面上は仲良くはできる」みたいな局面はある。たくさんある。

しかしネット文化はそんな局面の、「一緒に仕事くらいならできる」「表面上は仲良くできる」という部分をバッサリ切り落とし、「ムカつくヤツ」「キラいなヤツ」の部分の純度を高め、流通させ、無限に増殖させてしまう。

かつて人類には、「ネットで中傷されたら回線抜いて3日間寝てろ。そのあいだにみんなおまえのことなんか忘れる」という知恵があった。

しかしそんな知恵はもう消え失せてしまった。回線抜こうにもWifiでどこへ行っても常時接続の時代だ。人は、常時接続で純度の高い偏見や差別や憎悪にさらされ続ける。

 

こうした趨勢はおそらく変わらないだろう。

ネットの情報のやり取りの速度はますます加速し、憎悪や侮蔑の純度はさらに高まってゆく。

 

自衛手段はおそらく身体性なのだろう。 身体を持つ以上、疲れるし眠くなるし腹も減る。

疲労や眠気や空腹といった夾雑物こそが、我らをネットの狂気から救ってくれる。

思えば「飯テロ」の投稿などは、そうした高純度のネット世界から肉体を引き戻そうとする無意識の抵抗運動なのかもしれない。

 

純度の高いネットの狂気から身を守るため、時期がきたらいの一番に松屋のシュクメルリを食べることにしようと思う。

それじゃまた。