楽観主義者は悲観的であり、悲観主義者は楽観的である。
前々から論じたいと思っていたテーマであり、十全に書き尽くせるかはわからないがやってみたい。
まず、自分の立ち位置を明確にしておく。僕自身は自分を楽観主義者として位置付ける。
そのうえで、上記の楽観主義者は悲観的であり、悲観主義者は楽観的であるという命題を論じてみる。
楽観主義者と悲観主義者とは何か。
バーナード・ショーの定義によれば、『楽観主義者は半分だけ水が入ったコップを見て、「半分も入っている」と言う。悲観主義者は同じコップを見て、「半分しか入っていない」と述べる』。
楽観主義者の端くれとして言わせてもらえば、楽観主義の前提には諦めがある。
確かに楽観主義者は半分だけ水が入ったコップを見て「半分も入っている。ラッキー」と言う。しかしそれは楽観主義者が能天気だからではない。楽観主義者は、世の中が自分に対してなみなみと水がつがれたコップなど用意してくれるわけがない、とハナから諦めているのだ。
楽観主義者というものは、大前提として、何もしないで自分にコップいっぱいの水が与えられるなど期待していない。
自分に与えられるのは空っぽのコップだと思っているからこそ、半分だけ水の入ったコップを見て「半分も入っている。ラッキー」と思うのだ。
それに対し悲観主義者はどうか。
悲観主義者は、世の中というものは自分にコップいっぱいの水を与えてくれて当たり前だと思っている。自分には無条件であふれんばかりの水が与えられると決め込んで待っている。
悲観主義者が持つ前提というのは、楽観主義者から見ればずいぶんと虫のいいものに見える。
自分には無条件でコップいっぱいの水が与えられて当然と期待しているからこそ、「半分しか入っていない」と憤るのだ。
明石家さんまの座右の銘は「生きてるだけでまるもうけ」だと言う。
悲観主義者はそれを聞いていい気なもんだと笑い、気楽でいいやとあきれるだろう。しかし楽観主義者はそれを聞いて戦慄する。「生きてるだけでまるもうけ」ということは、「生きていられない」という状況が常に視野の中にあるということだ。
「生きていられない」こともありうると想定しているとは、この人はどれだけ地獄を見てきたのだ、もしかしてこの人は、むかし黒い悪魔だったのではないか、と。
悲観主義者は言う、「もうダメだ!」と。
楽観主義者は答える、「まあなんとかなるんじゃない?」と。
悲観主義者がそう簡単に絶望するのを見て、楽観主義者は驚く。絶望だって?絶望なんかしたら、一巻の終わりなのに。
野良犬は絶望しない。絶望した途端、すべては終わってしまう。
楽観主義者はピンチで笑う。泣くのがヤだから笑っちゃおう。笑ってなければ、前には進めないのだ。
<絶望するのは甘いからだ。絶望は、良家の子女の特権である>。
井上ひさしの『吉里吉里人』の中で、スピノザの言葉として引用されるセリフだ(中公クラシック版『エチカ』を読んだが、ドンピシャの箇所は見つけられなかった。詳しい方、教えてください)。
そんなわけで、常々ぼくは「楽観主義者は悲観的で、悲観主義者は楽観的だ」と思っているのだが、うまく書ききれたかどうかはやや不安である。
言いたいことがうまく伝わるかどうか心配だが、
まあなんとかなるんじゃないかな。
↓医療現場も大変ですが、悲観的にならずに長生きできる受診のコツを解説。
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