その晩もイスタンブールは寒くて、ぼくらは日本人旅行客が集まる安宿、いわゆる「ジャパ宿」の二階の廊下にあるストーブの周りに座ってだらだらと話をしていた。
自分の部屋に帰ってもやることもないし部屋には暖房もないから心底冷える。
そもそもが部屋と言ったって大部屋も大部屋、部屋にどんと置かれた6つの二段ベッドのうちの一つの下の段だけが自分の占有スペースだ。
そんなところにいるくらいなら廊下の擦り切れた赤いカーペットの上でストーブの火を眺めていたほうがよほど良い。
芸大生の二人組の片割れがぽつりぽつりと言う。
「日本の寺なんかの建築には静けさを感じるんだ。無音で、ただそこにたたずんでいる。
ヨーロッパの石の建物、キリスト教の教会っていうのは、あれは音楽だね。
モスク、こいつには数学を感じる。あれはそのまんま数学だ」
彼の言っていることはさっぱりわからなかったが、虚勢を張ってぼくはうなづいた。
アヤソフィアやブルーモスク、スルタンアフメット・ジャミイは数学そのものなのか。
わからん。
芸大生は続けた。
「北アフリカの村に5か月いたんだ。漆黒の肌を見たかったから。
途中で気付いたんだ、あ、おれってバカだって。
漆黒の肌の人たちってのはもっと南のほうのアフリカじゃないといないんだ。
北アフリカの人たちの肌ってのはもっと浅黒いからね。
でもめんどくさくなって、そのままその未開の村に居続けた」。
グーグルもウィキペディアもないころの話だ。
「おれがその北アフリカの地で会った奴の話。
そいつは小さな店をそこでやっていた。
おれが、なんでこんなところで商売しているんだってきくと、奴が言った。
『おれの金ではこの国に来るのが精いっぱいだった。でもおれの国よりはいい』。
奴はそうやってその国で成功して、また次の国へステップアップするつもりなんだ。
この次はどの国へ行くんだ。おれがきいた。
聞いたこともないような国名が返ってきた。
その次はどこに行く?まただ。また知らない国の名前。
その次は、その次は、と聞いていくと5つくらいの国の名のあと、奴は言った。
『アメリカ、そこが最終目的地だ』。
おれは聞いた。
その時、お前はいくつだ?
奴が答えた。
『わからん』、と」
しばしの沈黙。
四十歳過ぎの男性とともに旅をしている謎の美少女がぽつりと言った。
「日本だと首から下げるものは何でも売れるの」
男性と一緒に旅をしながら、イスタンブールのバザールでネックレスやナザール・ボンジュウを仕入れて日本で売るらしい。
数十円の原価で仕入れたものが、エスニックな雑貨店で千円とか二千円で売れていくそうだ。
目玉の形をした青いガラスのお守り、ナザール・ボンジュウのご加護だろうか。
あのころには街のあちこちに怪しい外国人のアクセサリー売りがいた。
ずいぶん前から見なくなったけど、イスラエルからの若者が多かったらしい。イスラエルには社会人になる前に世界を放浪する通過儀礼的な風習があるとかいうのを何かで読んだ。流浪の旅を強いられた祖先の経験を体感する意味があるとかないとか。
そうした世界放浪する若者を受け入れる体制も各国で整っていて、当時の日本だとそうした街角のアクセサリー売りは旅の小遣い稼ぎの一つだったようだ。
東南アジアで安く購入したアクセサリーをじゃらじゃらつけて「個人の持ち物」として無税で日本に持ち込み高く売って旅費の足しにする。「地回りの方々」にも話をつけていて、いくばくかを払って商売していた。
あのころは街に、偽もののテレホン・カードを十枚いくらで売るイラン人もいたなあ。閑話休題。
イスタンブールの冬の空の下、「ジャパ宿」のダルマストーブが燃える。夜はふける。
謎の美少女は話を続ける。
「ヒッピーの人たちって面白いの。いまだに『いのちの祭り』とかやってるし」
12年ごとのドラゴン・イヤー、辰年に行われるカウンターカルチャーの野外イベントが『いのちの祭り』だ。1986年のチェルノブイリ原発事故がきっかけになったもので、1988年は八ヶ岳で開催されて約1万人が集まった。WIRED誌2012年11月30日の記事でさっき知ったばかりだけど。
ふと誰もが口をつぐみ、見えない天使がぼくらの間を通っていった。
もう何回目かの、沈黙。
「ハッピ・バースデー・トゥー・ミー、ハッピ・バースデー・トゥー・ミー」
突然調子っぱずれの歌が階段の下から聞こえてきた。
「ハッピ・バースデー・トゥー・ミー」
歌の主が階段を上ってきた。ジャパ宿で働くイスタンブールの若者の一人だ。
どうしたの?と誰かが聞く。
「彼女から連絡が来たんだ、やり直したいってね」
彼女?
「出稼ぎに行っていたドイツで知り合ったんだ。彼女はドイツ人なのさ。
もう何年も連絡がとれなかったけど、数年ぶりに電話が来たのさ。
ああ最高だ。ハッピ・バースデー・トゥー・ミー」
それはおめでとう。みな、口ではそう言いながら、それほど表情を変えることはない。
「長旅をしているとね」
もう1年以上ユーラシア大陸を一人で旅しているという女性が言う。
「“エア・ポケット”がいくつかあるの。
なんてこともない、名もない小さな町なんだけど、旅行者はそこで足を止めてしまう。
あれ、俺なんで一生懸命旅をしているんだっけ。
旅をして何の意味があるんだろう。
日本に帰ってなんになるんだろう。
“エア・ポケット”ではそんな思いにとらわれてしまう。
前に進む気が無くなってしまう。かといってその町に興味があるわけでもない。
ただただ無為にそこで日々を過ごしていく。そうやってずぶずぶと“エア・ポケット”に沈んでいくのね」
再び、沈黙。
芸大生の名前は聞き忘れた。四十男と美少女のカップルの名前も知らない。
トラムを降りてアヤソフィアとスルタンアフメット・ジャミイを横目に下りていく坂の途中にある、そのジャパ宿の名前はハネダン・ホテルといった。
今もまだあるのかは知らない。
アメリカを最終目的地にして小さな店をしていたというそのアフリカの男がどうなったかも、もちろんぼくが知るはずもない。大統領が変わってからというもの、アメリカの入国は厳しいようだけど、彼は無事にアメリカで商売できているのだろうか。
イスタンブールの若者は、ドイツ人の彼女と再会したのだろうか。
すべてはイスラム国もメールやSNSも、トランプ大統領もまだない、1996年のこと。
寒い夜に、ふと思い出しただけの、なんでもない話。
(FB2014年2月19日を加筆再掲)