親戚の小さな子どもと話していて、『機関車トーマス』の話になり驚いた。
「トーマスの汽笛はなんていうの」と聞くと、「えーとね、クックー」、「じゃあゴードンは?」と聞けば、「コッコー」。「パーシーは?」、「パーシーはキッキー」。
大人にとっては同じに聞こえる様々な機関車の汽笛の音を、すべて聞き分けているようなのだ。
考えてみれば子供にとっての世界というのは限られていて、その中で日々処理する情報の数も限られている。このため、大人は無視してしまうようなちょっと差異も、子どもにとっては大きな意味を持つ。
逆に言えば、大人になればなるほど処理すべき情報は増えていき、それに対して処理する時間は限られてくる。
少ない時間でできるだけ多くの情報をさばこうとすれば、「クックー」も「コッコー」も「キッキー」も、全部同じ「汽笛の音」という認識の箱に放り込んで処理していかざるを得ない。
もちろん生活の中での重要度という問題もあり、それぞれの人の中で重要な事項というのは他者にとっては同じようでも繊細に区別していかなければならないこともある。
例えば、自分に縁遠い世界のものはみな似て見える。
AKBにあまり関心のないぼくにはメンバーが皆似て見えてしまうし、力士の顔もみな一様に「お相撲さん」に見えてしまう。
最近それを実感したのは経済雑誌「プレジデント」をパラパラと読んでいたときで、出てくる経済人の顔が皆、「大前研一」に見えてしまうのである。メガネを外した大前研一、白髪の大前研一、老けた大前研一、若い大前研一、やせた大前研一…、大前研一のオンパレードだった。
逆に、自分に身近な事象ほど差異に敏感になる。
自分の仕事や日常生活に関係することでは、他人にはどうでもいい差異を区別し呼び分けることになる。
日本人にとっては「マグロ」と「タイ」は違うが、SUSHIに興味のない外国人にとってはどちらも「FISH」だ。まあ、昔よく聞いた「雪が重要な意味を持つイヌイットの生活では、さまざまな形態の雪を100通りもの単語で呼び分ける」というのは都市伝説らしいですけど。
なにはともあれ、歳を重ねるにしたがって処理すべき情報は増え、残念ながら情報処理をする脳の働きは衰えていく。そうすると細かな差異はどんどん無視せざるを得なくなり、大人になったぼくはもう、AKBの各メンバーの差異どころか、AKBとNMBとHKTの違いも分からない。
歳を取ればとるほど加速度的にいろいろな出来事の差異はどうでもいいものとなっていき、いつしか昨日と一昨日と一年前の差もどうでもいいものになり、家族と他人の違いだってどうでもよくなっていく日が来る。
そうしてその先、物事の差異はさらに急速にどうでもよくなって、光も闇もたいして差のないぼんやりとした薄明りの中で、有と無や生と死の違いすらどうでもよくなって、此岸と彼岸の境目、刹那と永遠の間で、いつの間にか存在自体が発散していく日がやってくるというわけだ。
コッコー。
(FB2013年1月31日、2017年2月13日を加筆再掲)
↓医者がこだわる症状の「差異」とは何かを解説。