まだ子どもが幼かったときのこと。
「ねえパパ聞いて。わたし気付いたんだ。
あのね、みんな“自分”なんだよ」。
ある日、幼いわが子が話しかけて来た。
「わたしはね、“わたし”でしょ。パパは〜、“ぼく”。ママは〜、“わたし”。
ね、みんな“自分”なんだよ」。
おお、と僕は驚き感動し、ボブとサリーとアンのことを思い出した。
レゲエ・ミュージックの歌詞では時に「we」のかわりに「I&I」が使われる。
「We are equal、私たちは平等だ」ではなく「I&I are equal、私と私は平等だ」のように、「We=私たち」ではなく「You & I=あなたと私」でもなく「I&I=私と私」。
そこには私とあなたを隔てるものはなく、私の外部に対峙するあなたがいるのでもなく、私にとっての「私」とあなたにとっての「私」が同等に存在するだけだというラスタたちの根底思想がある(とされるが、ただ単にパトワと呼ばれるジャマイカ英語が相当に訛ってるだけという可能性は十二分にある)。
そしてまた、「I&I」の響きには、Iが沢山集まったとしても「we」という別の性質ののっぺりした得体の知れない共同体になるのではなく、あくまでも「I」という個が集まってるだけだよ、という諦観にも似た独立自尊・自主自立の精神も聞き取れる(気がするがジャマイカ人がそう思ってるかは不明)。
ボブ・マーリーの奥さんリタ・マーリーが率いる3人組コーラス隊の名も「I Three(s)、アイ・スリー=三人の私」だ。狩撫麻礼に冥福を。
サリーとアンの話にうつる。
子供の心の発育を考える上で『サリーとアンの課題』というものがある。
1985年にCognition誌に掲載されたBaron-Cohenらの論文の中に出てくる(①)。
子供に、サリーとアンという名の人形を見せて人形を動かしながらこんなふうに言う。
「サリーとアンが一緒に遊んでいます。
サリーはビー玉をバスケットの中にしまって、それから部屋の外に出て行っちゃいます。
サリーが出ていった後、部屋に残ったアンはバスケットの中からそっとビー玉を取り出して、別の箱の中にしまっちゃいます。
そのあと部屋の外からサリーが帰ってきます。
さて、サリーはビー玉をどこから取り出そうとするでしょうか?」
普通に考えると、ビー玉の場所が変わったことを知らないサリーは、はじめに自分がしまったバスケットのほうを探すはずだ。
実際、未就学児でも多くは「サリーはバスケットからビー玉を取り出そうとする」と正しく答えられるが、Cohenらの論文の中ではautism自閉症の子供たちは「ビー玉は箱に移されているんだから、サリーは箱を探すはずだ」と間違えることが多いと述べられている。
サリーにはサリーの、アンにはアンの視点があるということを理解するには心の発達が必要だということであろう。
ネット上では『サリーとアン課題』が安易に一人歩きしてアスペルガー症候群のレッテル貼りに使われたりしているが、医学的根拠が検証されているかは自分自身で未確認のためそこには踏み込まない。
「みんな“自分”なんだよ」という我が子の話からそんな連想を転がしてみた。
まあ平たく言えば、「ぼくにはぼくの物の見方があり、あなたにはあなたの物の見方がある。そう簡単にどっちがいいとか悪いとか言えない」というだけの、考えてみれば当たり前の話だ。
そんな考えてみれば当たり前の話を、我が子が自分で発見した瞬間に立ち会えたことは親として本当にうれしいことである。
残念ながら、そんな考えてみれば当たり前の話も、ひとは大人になるといつしか忘れてしまうのかもしれないのだが。
(以前にFB掲載したものを加筆再掲)
①