メキシコの朝

「この町でいちばん安い宿に連れて行ってください」
タクシーの運転手にそう言って連れてきてもらったくせに、いざその宿に着いて部屋に入ると湧いてくるのは後悔ばかりだった。

 

メキシコシティからバスで半日、熱帯林を切り開いたまっすぐな道をひたすら揺られてその町に着いた。いきがっていちばん安い宿なんていうものだからその部屋には裸電球しかなくて、天井こそ高いものの、光を入れるための窓もトーストよりも小さい。シーツの隙間からは何か這い出てきそうだし、なんと言ってもドアの鍵は後付けのチープな、公衆便所の鍵と同じタイプのもので、その上ドアそのものもベニヤ板みたいなペラペラのものなのだった。
今の今わかったんだけど、あの部屋はたぶん、スペインの植民地だった時代の召使部屋を改装したものだったんだろう。

 

「強盗がその気になれば、一発でドアを破られるな」
オアハカだったかメリダだったか町の名前は忘れたが、メキシコの町というのはそんなに治安が良いとは言えないはずだ。

 

どんどん夜が更けて恐怖がつのる。
明日の朝、絶対に宿を変えようと決意しながら、ぼくはドアの前に椅子だの机だのを積み上げてバリケードを作って、ビクビクしながら夜を過ごした。本気のバリケードを作ったのは、生涯であの夜だけだ。

 

うとうととまどろんでいると、外で大声がした。
ケンカかと思ったが、よく聞くと怒声ではなく大歓声。
わーわーと楽しそうにたくさんの人の声がする。
明かりとりの小窓からは日差しが入る。
いつのまにか朝になっていた。

 

警戒心より好奇心が先に立って、ぼくはバリケードを解除しおそるおそる外に出た。
ソカロと呼ばれる中庭で、何人もの人達が駆けっこをしている。まわりの観客は、ヤジや声援を思い思いに飛ばしている。
駆けっこをしている人達の背丈は、一様に低い。
子どもほどの背丈に、短い手足と、その上に大人の顔。
成長ホルモンの関係で、身長が伸びるのが止まってしまった、医学的に言うと「小人症」ということになる。
小人症の人達が楽しそうに徒競走を朝からやっていたわけで、その歓声に起こされたというわけだった。

 

あの団体が患者団体なのか日本ではなくなってしまった種類の興行団体だったのかは今となってはわからないが、メキシコの早朝の真っ青な空の下の、小柄なメキシコ人たちの心底楽しそうな大歓声と朝日を浴びて力いっぱい走る姿はしっかりと思い出す。

 

「死を憎まば生を愛すべし」(徒然草)なんて話を書こうと思ったのだが、思わぬ話が長くなってしまった。

皆さま、良い一日を。

 

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